2008年9月8日月曜日

神の臨在に生きる(3)

神は「私自身がいっしょに行って、、」と、モーセに約束されました。

エジプトを脱出したイスラエルの民を、神が与えると約束された、乳と蜜の流れるカナンの地に導いて行くことは大変なことでありました。

荒野の旅の途中で、いろいろな問題が起こりました。彼らは飢え,渇き、疑い、つぶやき、不信仰になりました。指導者モーセを責め、苦しめました。

そのようなモーセを、神は励まし、支え「わたしはあなたとともにいる」と約束されたように、いつも、どんなときにも共にいて、助けられました。

はじめは、御使いを遣わすと言われましたが、モーセはそれでは満足せず、必死になって神の臨在を求めました。そうして、ついに「私自身が一緒にいくであろう」と、約束されたのであります。(出エジプト記33:14)

私は、神にいろいろなことを願い求めます。しかし、何よりも最も求めるべきことは、神の臨在、神が共にいてくださるということだと確信します。

吹上

2008年9月6日土曜日

生老病死

ダビデは「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも,わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです

詩篇3:4

だれもが、この死の谷を避けて通ることはできません。

「生老病死」の四苦の中を歩むでしょう。しかし、神はどのような人生の苦しみや、悲しみの時にも、共にいて慰め、力づけ、導いてくださいます。

たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災いはあなたに近づくことはない

詩篇91:5−7

詩人は、神を信じる者の勇気と喜びを歌っています。その秘訣は、神がともにおられるという確信のゆえであります。

「臨在」とは、神がいつも共にいて下さる、私が行くどこにも、神が共に行って下さるということです。

祝福をお祈りします。

吹上

2008年9月5日金曜日

引退生活

神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである

コリント第一の手紙15:10

1997年の夏、ランチョラコスタ教会で、わたしたちの引退祝賀会を持ってくださいました。

40数年の牧師生活ですが、お祝いしていただくほどのご用をしてきただろうかと反省させられたことでした。

アメリカでは「おめでとう」と、皆様が祝って下さるのですが、日本ではどうなのでしょうか。今までご苦労様でした、無事によく務められましたね、というねぎらいのお祝いでしょうか。

長いようで、短い40数年の牧師としての働きでありましたが、神の恵みのゆえにここまで来ることが出来ました。

神の恵みとともに、多くの方々の愛とサポートによって、弱いわたしでしたが、強められた日々でした。皆様の背後にあっての祈りを心から感謝いたします。

引退生活も早や11年を過ぎました。

そして高齢者となった今、今後どのように生きるべきかを考え、さらに実りある余生をと祈っています。

続いてお祈りのなかにお覚え下されば感謝です。

吹上

2008年9月4日木曜日

神の臨在に生きる(2)

ヤコブが家を出て、荒野で石を枕にして眠りについたときです。神は夢の中で「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたを捨てず、、」と約束されました。

創世記28:15−16

渡米した私にとって、大きな問題は英語の理解力不足と孤独でありました。ヤコブのようではないにしても、心の砂漠というべきでしょうか、知人の数少ない環境でした。

そのような日々の生活のなかで、私が支えられたのは、聖書の約束のことばでした。「わたしは共にいる、わたしはあなたを捨てない」そしてこの約束は真実でした。


神の臨在が、その当時の孤独だけでなく、今日までのアメリカでの生活48年間を支え、守られてきました。一人では乗り越えられなかったことです。あの時にも、この時にも、神は共にいて下さったと感謝することばかりです。

これからの人生も決して楽なことばかりではないでしょう。老いの問題、肉体の衰え、経済問題、人間関係の問題その他、、。

神の臨在があるかぎり、なにも思い煩うことはないのです。見捨てられることはないのですから。


吹上

2008年9月3日水曜日

神の臨在に生きる

わたし自身が一緒に行くであろう

出エジプト記33:14

新改訳聖書は「わたし自身がいっしょに行って、、」と訳されています。

もっと古い訳は「我親(みづから)汝と共に行くべし」とあります。英語の聖書では「My presence will go with you」です。

神の臨在とは、神がわたしと共に行ってくださるということで、すばらしい約束です。今までもそうでありましたが、これからの人生も、神の臨在があるというのです。

神と共に生きることによって豊かな老後を、霊の祝福に満ちた歩みを続けたいと願います。

ウエスレーは「人生で最も良いことは、神がわたしと共におられる事である」と言い残しました。

神がどんな時にも一緒に行ってくださる、いつもわたしのいる所に神が臨在してくださるということは、なんと力強い、祝福に満ちた約束でしょう。

吹上

2008年9月2日火曜日

健康であること

日本時間夜中の一時にIさんから電話がありました。

何事かと思いましたが、10月末の集会の件でありました。

会話の中で知ったことですが、わたしが後期高齢者であるということで、土、日曜とご用が続くと、お疲れになるのではないかと言って大変気を使っていてくださるということでした。

9月末には修養会のご用があり、また一日に2回のご用をすることもあります。今は元気に奉仕をしていますので遠慮なくお使いくださいと返事をしたことでした。

2006年の1月2日の手術(日本で)のことで案じてくださっての気配りでした。

75才からアブラハムの新しい旅立ちがあったように、わたしも主のご用のためなら、どこにでも出かけて行きたいと心に決めたことでした。8月は7回のメッセージを伝えるご用に招かれています。感謝と喜びにあふれています。

このようにご用ができるまでに健康を強めてくださった神に感謝しています。神を賛美します。また、多くの方々が祈りのサポートをしていていてくださることを心からお礼申し上げます。

健康であるということだけでも感謝であるのに、なおも奉仕ができるということは嬉しいことであります。

皆様、続いてお祈りの中にお覚え下されば感謝です。

吹上

2008年9月1日月曜日

そこに祭壇を

アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた

創世記12:7

カナンの地に着いたアブラムは、そこに先住民のいることを知り、心の中に不安があったことでしょう。

その時に主はアブラムに現れて「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われました。(創世記12:7)そこでアブラムは、神を礼拝するために祭壇を築きました。そのことはアブラムが神第一の生活をしようとする姿を示すものです。

わたしは、自分中心の生活か、それとも神第一の生活をしているかを問われます。

アブラムにとって、祭壇がある生活は、神と交わる所でありました。また神を呼ぶ所でありました。


「西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は祭壇を築いて、主の名を呼んだ」(創世記12:8)

日々の生活の中に、祭壇があるでしょうか。神と交わり、神を呼び,神に祈る生活です。目に見える祭壇ではなく、朝ごとに聖書を読み(神に聴く)祈り(神に語る)神と交わる時間を持つこと(デボーシヨン)です。

そこから一日が始まるという習慣を身につける人は幸いです。心から主を呼びましょう。
「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、、」(詩篇1:3)

吹上