2008年8月30日土曜日

心の雑草

御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容,慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これを否定する律法はない

ガラテヤ人への手紙5:22−23

我が家には、小さな箱庭が幾つかあります。

木で箱を作り、そこに土を入れ、そこに野菜を植えて成長を楽しんでいます。実際にやってみて、いろいろなことを教えられています。

太陽の光がよく当たるところと、日陰の多いところでの育ちは違います。(日陰の好きな植物もあります)

神の恵みの光を受ける程度によって、人の霊的な成長も違ってくるでしょう。いのちの光であられる神の恵みを心一杯にうける毎日でありたいですね。

水も大切です。やりすぎると根が枯れることもあります。不足すれば成長がおそいです。適度の水をやることに失敗し、水をやりすぎてしまうのです。(早く育てようと)

水は聖霊を示すと言われています。

「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。(ヨハネによる福音書7:37−39)

聖霊の満たしには、多すぎるということはないでしょう。日々聖霊に満たされ、導かれる人は幸いです。

堆肥も必要です。水だけでは十分ではありません。野菜のごみや落ち葉(腐葉土)などを土に埋めることです。(毎日穴堀りです)そうでないと成長は期待できません。

土つくりは大切です。特に雑草を取ることが大切です。そうでないと、野菜よりも成長が早く、結実を期待するこはできません。(雑草は強く,どんどんと大きくなります。)

人の心の雑草も取り除かないと、良い行いの実(御霊の実)を結ぶことは困難でしょう。

世俗老人の心も、神のことばによって、砕かれ、やわらかくされ、素直にされることを日々祈っています。

吹上


2008年8月29日金曜日

世俗老人の心を豊かにする神の御言葉

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためである」

ペテロ第一の手紙2:2

何不自由のない、ものが豊かな生活であれば、人は心の豊かな日々を過ごせると思うのですが、どうもそうではないようです。

ものは物であって、心を養い、豊かにしてくれる物ではないようです。

終戦後のもののない時代、辛抱を強いられた日々の生活、それだけに今の社会に見られるような心の問題がなかったように思えます。

巷には物があふれ、感謝する心がうすれ、さらに欲望だけがつのります。だからこそ、心の糧をとることが大切ではないでしょうか。

人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである

マタイによる福音書4:4

パンも必要ですが、それだけではなく心の糧、神の御言葉が、唯一この世俗老人の心を豊かにするのです。

吹上


2008年8月28日木曜日

ペテロの晩年

よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯をむすびつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう

ヨハネ21:18

礼拝で「ペテロの晩年」について語りました。

若いときのペテロは、自分で帯をしめて、自由に自分の思いのままに歩きまわりました。しかし晩年には、ほかの人が帯を結びつけてくれ、手をとって行きたくない所へ連れて行くであろうというのです。

このようなことは、わたしたちの人生にも起こることであります。

自動車を使って、自分の行きたいところに、自由に動いていたのに、高齢や病気などで運転ができなくなると、他の人のお世話になるのです。

私の好きなヘルマン:ホイヴェル師の友人から贈られた詩の一節です。

「若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人の役に立たずとも、親切で柔和であること、老いの重荷は神の賜物、、、」

「謙虚に人の世話になり」という言葉のように、素直に人の親切をうける世俗老人の晩年でありたいと思います。

吹上

2008年8月27日水曜日

わたしの平安(2)

死を前にしても奪われない平安、それはどのようにして得られるのでしょうか。

イエスさまは、次のように語れました。

「わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない」(ヨハネ14:30)

「この世の君」とはサタンでありますが、イエスさまに対して何もすることができなというのです。それゆえに十字架刑の死を前にしても平安を持っておられました。

「わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである」(同14:31)

イエスさまが、父なる神を愛し、全く服従しておられるお姿です。

この神への信頼、全き服従、そして神を愛し、神に愛されている確信のゆえに、どのような苦難の中にあっても、また死を前にしても奪われない平安を持っておられました。

「わたしをつかわされたかたは(父なる神)わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになることはない」(ヨハネ8:29)

神と一緒におられるということから来る平安です。

聖歌の中に「主のやすき 主のやすき

        われはうちに 今もてり」とあります。

明日ではなく、今、あなたは主イエス・キリスト様の平安を持っておられますか。

吹上

2008年8月26日火曜日

わたしの平安

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな

ヨハネによる福音書14:27


この度の北カリフォルニア行きの用件は、W教会でメッセージをお伝えすることでした。

その礼拝メッセージで語ったのが「わたしの平安」とゆう題でした。イエス様の持っておられた平安であります。

人は死を前にすると不安になることでしょう。イエスさまは、その死、十字架刑による最も残酷な死でさえも奪うことのできない平安を持っておられました。その平安を、わたしは残して行く、与えると約束されました。

その平安は「イエスの遺産」と言ってもよいでしょう。この世の与える遺産は、金銀や物でしょう。しかし、イエスさまはこの世のものとは異なる、この世の何物も与えることのできない「平安」を遺産として残してくださったのです。

この平安は、この世だけのものではなく、神の国につながる、永遠の祝福であります。ゆえに死を前にしても心は平安であり、天国への希望に輝いて生きることができるのです。

吹上

2008年8月25日月曜日

孫たちと遊ぶ(2)

翌日、ヘイワードの長女宅から、1ヶ月前にサクラメントに移って来た次女のアパートを訪ね、孫たちにも会うことができました。

彼らがシャトルに住んでいたときは、年に一度訪問したことでした。彼らも同じように一年に一度ほどサンデイェゴを訪問しました。孫たちは会うたびに成長しており、会話もしっかりとしてきました。それに比べ自分は成長していないと反省させられます。

この孫たちも、ヨーバリンダに住む孫たちと同じように「おじいちゃん」と日本語で呼んでくれます。でも後は英語だけです。

孫たちに日本語を期待するのは無理です。娘たちが日本語が話せないのですから。日本語を学ばせたこともありましたが、ものにはならず残念に思っています。

大学時代に日本語クラスに入ったのですが、それも役立たずに終わりました。

孫たちのすぐ近くにプールがあり、毎日のように泳いでいます。この前よりもよく泳げるようになっていました。男の孫はスクータで走りまわっています。その元気な姿に驚くばかりです。

自分もそのような時があったのにと思いながら、可愛い孫たちを見守っていました。

吹上

2008年8月23日土曜日

足を洗う

自分は神から出てきて,神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。

ヨハネによる福音書13:3−5


W教会でのご用のために北カリフォルニアへ。

家内と車で行く予定でしたが、関節炎からくる首の痛みのために中止。この度は飛行機で行く事になりました。

オークランド空港には長女が迎えに来てくれました。婿さんと二匹の犬に歓迎してもらいました。黒犬がアキ、白犬がクマ、日本からアメリカに移住した犬であります。でも英語のほうが分かるようです。

台所で立ち話しをしていると、その二匹の犬が片足づつをペロペロとなめてくれるのです。愛情を示してくれるのでしょうか?それとも汚れた足をきれいにしてくれるのでしょうか。

その時にイエス様の洗足を思い出しました。

当時は、足を洗うことは奴隷の仕事であったようです。その洗足をされたイエス様に深く教えられます。

吹上