2008年10月31日金曜日

使命に生きる

あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい

テサロニケ人への第二の手紙4:11

使命。文字通り、命を使うと書きます。

ではどのように命を使ったらよいのでしょうか。自分のために、それとも人のために?

仕事のために、家庭を守るために、様々な生き方,使命がありますが、わたしは若い時に、神のために使うようにと導かれました。

どんなに目立たないことでも、忠実に努めることが私の使命であると思います。 

それぞれに、与えられている使命に、命を注いで(命を使い果たして)神のもとに召されたいものです。

 吹上

2008年10月30日木曜日

世俗老人の理想的な生き方

どう生きることが理想的でしょうか。

私は手に職(技術)を身につけて、たくましく生きている人に心を動かされます。

競争社会に生きるならば、一番になることでしょうね。

常に一番になることを求められる子供は、二番では満足できないのではないでしょうか。(親が満足できないこともあるでしょう)

たとえ三十番目であっても、ベストをつくして、コッコッと学び続けるならば、悔いなく生きることになるのではないでしょうか。

自分も残された老後の生活を、人と比較して、失望するのでもなく、ひねくれるのでもなく、真面目に生きることができれば理想的ではないかと思っています。

たくましく生きたいものです。

 
吹上

2008年10月29日水曜日

お祈りを感謝します。

お祈りを感謝します。日本に無事着きました。

21日(火)訪日の予定でありましたが、サンディエゴ空港で、濃霧のために飛行機はキャンセルになりました。

バスでLA空港に向かいましたが、途中にトラックの大事故があり、渋滞となり4時間かかり、日本行きの飛行機はすでに出発した後でした。
 

次回は24日(金)に飛ぶということで、3日間娘宅で休養ということになりました。そのために23日と25日の集会はできなくなりました。

26日は大原教会で礼拝ご用をし、28日は知人を訪問、そのあと東京に行き、M宅に着きほっとしたことでした。

29日はO師をお見舞いしました。(M 姉の案内で)

11月2日は母教会である京都信愛教会で礼拝ご用をすることになっています。続いての旅の守り、健康のためにお祈りくだされば感謝です。

家内は、今のところ守られています。

お祈りを感謝します。
 
吹上

旅の目的は、神の国(永遠の聖国)

人が絶対ということばを使うとすれば、絶対に死ぬということでしょう。

この世に生をうけたものは必ず死に至ります。決定的であるこの死に対して解決が与えられているならば、人生を明るく生きることができるでしょう。

「死ぬ事を」を考えると、うれしくて、うれしくてと、大喜びするひとがおられるでしょうか?

パウロは、信仰の迫害を受けて、獄の中に身を置いていました。それは、いつ死刑になるかも分からないという環境です。しかし、彼はこう言っています。

「生きることはキリストであり、死ぬことは益である」と。(ピリピへの手紙1:21)また「わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」というのです。(同1:23)

生きることも実り多い働きであるのですばらしいことであるが、世を去ってキリストのもとに行く方がはるかによいことであるというのです。

生きることが辛いのではなく、死後の希望のゆえに、永遠に生きるという確信のゆえに、喜んで死を迎えることができるというのです。

地上の生活は旅であり、限られた年月であります。旅の目的は、神の国(永遠の聖国)であります。そこに神と共に住むのです。

吹上

2008年10月27日月曜日

午前4時44分

今朝は4時44分に起きました。ルームに置いてあるデジタルの時計が、赤字でくっきりと4:44と表示されています。その時は「死:死:死」と読むことにしています。

病院(日本)には4号室がないところがあるらしいです。4は死にとられて、病人や家族が喜ばないというのです。

わたしは、勿論肉体の死を考え、何時死がやってきても、神の前に立つ準備をするようにとの示しであると読みます、しかし、もう一つのことは「自我の死」と読むことにしています。

「最後に残された仕事は死である」と言われています。必ずやってくる絶対の死であります。
死後の確信をもっこと(永遠の命の確信)それとともに、自我に死ぬことも大きな課題であります。

「死んだはずだよお富みさん、生きていたとは、、」とかなんとかいう 歌があったようですが、死んだはずの自我が、むくむくと頭をもたげてきて、人間関係をダメにしてしまうのです。

この自我に死ぬことが、私の最後の仕事であります。若い時にその経験があれば、どんなに生き方が違ったものになることでしょう。

毎日、キリストと共に死に、キリストの復活の命に生きるものでありたいです。

吹上

2008年10月21日火曜日

お祈り下さい。

私たちは、本日(10月21日)から訪日します。

今回は、日本で手術を受けてから、3年ぶりの訪日になります。(帰宅は11月4日)訪日中2回の日曜日があります。訪日するならば、ご用をということになりました。

10月25,26日(土、日)は、神学校を卒業して、最初に牧師として遣わされた大原教会(岡山県英田郡)でご用をします。50数年前のことですから、わたしの知っている方々は、天国に召されておられます。でも教会学校に来ていた子供たち(今は60才前後)で、知っている人々がおられるというのです。再会を楽しみにしています。(皆さん、どんな大人になっておられるのでしょうか)

11月2日(日)は、私の母教会(京都信愛教会)でのご用です。私はその京都信愛教会で洗礼を受け、献身し、神学校に送りだしていただきました。なつかしい教会です。今日まで祈りのサポートをしてくださった教会です。

10月23日(木)の夜は、宿泊のお世話になる教会で、(はじめてですが)証しをすることになっています。(大阪)

私のご用、家内の健康が守られるようお祈りくだされば感謝であります。

吹上

2008年10月20日月曜日

慰めに生きる

主イエス:キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神はいかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めてくださり

コリント第二の手紙1:3−4


神は慰めに満ちたる方です。

リビングバイブルは「私たちが苦しみや困難にあえいでいる時、すばらしい慰めと励ましを与えてくださる方です」となっています。

裁きたもう厳しい神ではなく、慰めに満ちたる方であるというのです。実に甘美な、最も励ましを与えてくださる方です。

いかなる患難や苦しみにいる時にも、私を慰めることのできる愛なるお方です。

今日までの70数年の歩みの中で、どれだけ苦難の中で慰められ、力づけられてきたことでしょう。数えきれない慰めを与えられて生きてきました。これからも、この慰めによって生きていくことができることは感謝であります。

パウロは、極度に耐えられないほどに圧迫され、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟するような危険なことがありました。その恐ろしい経験によって「自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」(同1:8−9)と書いています。

リンカーンは「私は、神に行くほかに行くところがなかった」と言いました。

悲しみや、試練の時、どうしょうもないとき、神に行き、祈ることができます。神は慰めてくださり、生きる望みを与えて下さるのです。

痛み(腰)とかゆみ、まだ少しありますが、出来るだけ軽い荷物で明日から訪日したいと思います。

では、行って参ります。

吹上



2008年10月18日土曜日

ステチャエ

わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう

ヨブ記1:20

わたしたち夫婦は、物の整理が下手なため、ガラクタが溜まるばかりです。三女の家に行くと、実にきれいな台所、机の上も片づいています。

不要なものを捨てればよいのですが、物質の乏しい戦後の時代に育ったものですから、いつか使えるのではないか、もったいないということで増えるばかりです。

ステチャエ(捨てちゃえ)と、思い切ればよいのですが、そのつもりで集めたものを(家内が)目で見るとまた取り出すわたしであります。

これではいつまでも家の中や、机の上も片づくことはないでしょう。

メッセージの準備、手紙を書く、ブログの原稿、読書をする、同じ机上でするのですが、使用できるスペースはほんのわずかです。聖書や本や雑品が乱雑に置かれています。

今度は、思いきって捨てましょうと、かけ声だけであって、一向に実現しない我が家であります。

何一つ持たず裸かで、この世に生まれ、また何一つ持たずに、この世を去るのです。この現実に目を向けると「ステチャエ」が出来るのではないでしょうか。そう思いつつ、まだまだかしこには行かないと考えてしまうのです。

片づける時がきているのです。一日一日と天国は近づいています。

吹上

2008年10月17日金曜日

老いるということ

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい

テサロニケ第一の手紙5:16−18

「かゆみ」を読んでメールや電話で治療法を教えてくださつた方々に感謝します。まだかゆみが残っていますが、もうすぐ治るでしょう。

今度は、訪日前に裏庭をきれいにしておきたいと思い、かがんで(中腰)草取りなどをして、力を入れすぎたのでしょうか?腰を痛めてしまいました。(めずらしいことですが)寝ていると楽ですが。忙しくてその時間もなく動いています。(昨夜と今朝は祈祷会のご用)

特に、身体をかがめるとき、座っていて立ち上がるとき、階段を上るときに痛みが走ります。
自ら痛みを経験して、家内の首痛の大変さが理解できます。(痛み合い、慰め合っています)

首痛の奥様と、腰痛の主人(わたし)が訪日されるのですから痛々しいですね。(笑)
お祈りくだされば感謝です。

老いるということは、肉体的に(精神的、頭脳的も)いろいろと試みられることであります。その痛みや試練、変化の中で、喜びと感謝を持って生きる老夫婦であります。

吹上

2008年10月16日木曜日

祈りの人ネヘミヤ(2)

ネヘミヤは祈りの人でありましたが、また優れた指導者であり、その指導力にも教えられることです。近隣の人々のおどしや、抵抗、いやがらせを排除して、大工事をする部隊を守り、励まし、導いていくのです。

しかも、52日間という短期日で城壁を完成させました。それは、彼に指導された民の心からの協力、働きがあったからです。

「こうしてわれわれは城壁を築いたが、石がきはみな相連なって、その高さの半ばにまで達した。民が心をこめて働いたからである」(ネヘミヤ記4:6)

「民が心をこめて働いたからである」新改訳聖書は「民に働く気があったからである」と訳しています。
どんなに優れた指導者であっても、自分ひとりの力で、城壁を修理することは不可能です。
民の喜んでする協力が必要です。

ネヘミヤは「民に働く気」を「民が心をこめて働く」という、やる気をおこさせるリーダーであったというのです。(牧師も信徒にやる気を起こさせる魅力を持つこと。わたしには欠けていた?)

ネヘミヤは、ユダの地の総督に任ぜられますが、その「12年の間、わたしもわたしの兄弟たちも、総督としての手当てを受けなかった」(同5:14)と言うのです。無報酬の働きです。

ネヘミヤは祈りの人でしたが、また決断の人であり、組織力のある人でした。(3章)
彼の能力の背後にあった秘訣は何でしょうか。

1 神に心を動かされたということ。(召命ともいえるでしょう)新改訳聖書は「私の神が、私の心を動かして、、」(同2:12)とあります。自分の感情や、衝動ではなく、神に心を動かされて,事をしたのです。

2 祈りです。まず祈ってはじめました。(ネヘミヤ記1:4,2:4、4:9)

3 行動です。祈る、行動する、最善の努力をすること。祈るけれども、自分は働かないというのではなく、祈り、動くというバランスがあること。動くが、祈りが無いと言う人もいます。まず祈りましょう。どんな時にも。

吹上

2008年10月15日水曜日

祈りの人ネヘミヤ

ネヘミヤは信仰の人であり、よきリーダーでありますが、何よりも祈りの人であります。

祖国エルサレムの城壁はくずされ、門は火で焼かれたままであるという報告を、異国で聞いたとき「すわって泣き、数日のあいだ嘆き悲しみ、断食して天の神に祈って言った」とあります。(ネヘミヤ記1:3−4)

その祈りは「どうぞ耳を傾け、目を開いてしもべの祈りを聞いてください。、、昼も夜もみ前に祈り、、、主よ、どうぞしもべの祈りと、あなたの名を恐れることを喜ぶあなたのしもべらの祈りに’耳を傾けてください」(同1:6−11)というのです。

ネヘミヤは、当時アルタシャスタ王の献酌者であり、王に信頼されていました。(毒薬を入れろこともできる立場)

ネヘミヤの悲しげな顔をみた王は、何か心に悲しみがあるのかと問いました。ネヘミヤはエルサレムの町が荒廃し、その門が火で焼かれたままであることを聞いたので、悲しげな顔をしないではいられましょうかと答えました。そして、その地に行って再建させてくださいと願いました。

王の許可を得た彼は,期限を定めてエルサレムに出かけました。そこに着いたネヘミヤは三日滞在した後に、夜中ですが、町の城壁や,火に焼かれた門を調査しました。(同2章)その後、工事をする民たちの役割を決め(同3章)神の助けを得て、52日間で城壁を完成させました。(同6:15)

何の妨げもない中での作業ではありませんでした。さまざまな抵抗と妨害の中での突貫工事でありました。そのような苦難を乗り越えての完成でありました。

神は祈りに答えてくださったのであります。わたしたちもまず祈りましょう。

吹上

2008年10月14日火曜日

「くいだおれ」さんから学ぶべきこと

今年の夏、60年の長い間、人々に愛された大阪名物「くいだおれ」が閉店しました。

「人気が人気をよび、人が人をよぶ」という初代社長の言葉のとおり、人々に人気のあった店でした。だが時代の波に乗れなかったのでしょうか、多くの人々に惜しまれながらの閉店となりました。

2代目の女将は「もてなしの心」に徹して、お客さんを心から暖かく迎えられたいうのです。

教会は「くいだおれ」さんから学ぶべきことが多いと思いました。

「人が人をよぶ」を教会にあてはめた時、礼拝で恵まれた人、喜びにあふれた人が、人を導くのではないでしょうか。

「もてなしの心」とは、どんなに失望している人も、弱さをもつ人も、喜んで出席したくなるような、暖かい歓迎の心に徹して、信徒を大切にすることです。

教会の成長を祈ります。

吹上

2008年10月13日月曜日

祈り(10月12日 聖日礼拝)

愛と恵みに満ちたもう父なる神様

今朝、愛する方々と共に、神の民として、御前につどうことがゆるされ、礼拝を守るこのひとときを心から感謝します。

この礼拝を祝福し、今日でなければ受けることのできない豊かな恵みをお与えください。この礼拝で奉仕をしてくださる方々、またみことばを語るもの、聞くものの上に、聖霊のお助けをお与えください。

今朝、病気や、その他の理由で、礼拝を守ることの出来ない方々にも、この日を聖別された日として、主の恵みをお与えください。

訪日中の大倉先生ご一家、その他の人々の旅路を守り、祝福してください。留守の教会をお守り下さい。

今日初めて通訳のご用をしてくださるヴォトなおみさんを尊く用いてください。
この礼拝が、神のみがあがめられ、神に栄光が帰せられるようお導きください。
人を隠し、神のみを見仰げる礼拝にしてください。

聖霊さまの働きと導きを心から願い、この祈りを、イエスさまのみ名によってささげます。

アーメン

2008年10月11日土曜日

行くべきか、とどまるべきか

アブラムはききんの時、エジプトに下りました。(神の示しなしに)そこで妻の身に危険がおそいましたが、難を避けることが出来ました。パロは言いました「彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた」(創世記12:20)

パロは、アブラムの妻に手をださず、たくさんの持ち物を与えて去らせました。

ヨセフとマリヤは、イエスを守るためエジプトに逃れました。(神の示しにより)

「立て、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまでとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」(マタイによる福音書2:13)

アブラムの場合、そしてヨセフとマリヤの時も、同じようにエジプトに下りました。しかし、神の示しによって行動をしたか、そうでないとは大きな違いがあります。

行くべきか、とどまるべきか、この決断をするのはむずかしいことであります。

気の早い私は、神のみこころを問わず、祈りもせずに決断したことで失敗したことの多いものです。しかし、失敗しても悔い改めて、神のみこころに従うならば、その事も益に変えられることを学びました。

吹上

2008年10月10日金曜日

きずな

百万人の福音に掲載されていた、熊谷めぐみさんの証しに感動しました。熊谷さんは2年間におよぶ闘病生活から、光の世界へと救い出された方です。

私と同じ「うつ」の経験があり、医師からは「治らないかもしれない」という宣告をうけられました。その苦しみや、どうして自分だけがこんなつらい目にあうのかという嘆き、いやされたいという焦りに悩まされるなど、うつの経験者でないと理解できない心境などが心を打ちました。

吹上


「きずな」  熊谷めぐみ

あなたが六つの時にパパは
家を出て行った
こんなに大好きな私のパパなのに
どうして一緒に住めないの?

あなたは泣いた
見つめるものがすれ違ったから
二人の絆は切れてしまった
あなたがいたのに別れがきたのね

私がママを守ってあげるから
強い子になったわね
神様ありがとう
もうママ大丈夫心配しないで
守ってくれる人がママのそばにいるから
これからはあなたが幸せになるのよ

あれから幾度も季節はめぐり
あなたが巣立って行くのでしょうか
いつでもママは祈っているわ
あなたがいい人とめぐり逢えるように
めぐり逢えるように、、、

2008年10月9日木曜日

こいぬのうんち(2)

「犬の落し物(うんち)」から学んだ事を書かずに、他の人の月曜日のことを書きました。

「犬の落し物」を見ると辛い思い出や、苦痛を感じる人があります。またそれを汚いとか、不潔であると嫌って始末をされるでしょう。

わたしは「ネコの落し物」を拾って、土に埋めて肥料にしました。

「犬の落し物」ですが、「神様は、意味もなく何かを作られないよ。君にも意味があるよ」というメッセージが、この作品のテーマですとFさんは書いておられます。

私のことばですが「くそ野郎とどなられ、嫌われるような人間も、意味ある人生に変えられる」ということです。

こいぬのうんちくんは、ある日、優しい声を聞きます。かわいいタンポポの蕾です。「あなたは私の肥料になるの」。

うんちくんに助けられてタンポポは成長し、きれいな花になっていくのです。かわいいうんちくん、よかったね。

そんな世俗老人の日々でありたいです。

吹上

2008年10月8日水曜日

この子だれの子

「この子だれの子」(ビル・ウィルソン著/万代栄嗣訳) と言う本を読んでいます。

著者はスラム街で、強盗に襲撃されるという危険な中で22,000人の教会学校を作り上げた人です。

現代の教会には子供が集まらないと言われているにもかかわらず、多くの子供たちが喜んで参加しているのです。

私はクリスチャンホ−ムに生まれ、教会学校には物心がつく前から出席していました。その幼い時に学んだ聖書の話しが、今のわたしになる基礎となり、信仰生活を支えてきました。幼いときから聖書を学んだことが大きな力となりました。

神学校時代、また卒業後も、一番力を入れたのは教会学校でした。子どもが好きでしたが、それ以上に子供の魂に聖書のみ言葉を届けたいという思いがあったからです。

今頃の子供たちは日曜日に教会学校集まらないと聞いています。何とか工夫して、祈って、子供たちに伝道をしてほしいと願います。

子どもたちを神様のみもとに導きましょう。


吹上

2008年10月7日火曜日

総司君の洗礼式

10月5日(日)サウスベイの教会(安藤秀世牧師)で、礼拝ご用をしました。

その時に学生としてサンディエゴに住んでいて、祈祷会に出席していた小田原総司君(今はトーレンスにあるドミンゲスヒル州立大学生)の洗礼式がありました。

学生寮に入るお手伝いをしたときに、「君が洗礼を受ける時はしらせてほしい」と言った事を覚えていて、(不覚にも私は忘れていました)安藤牧師にそのことを伝え、それで洗礼式に来られるのならば、メッセージと洗礼式、聖餐式を二人ですることになりました。

礼拝のメッセージは、子供と一緒の礼拝(月一回)日であるから、子どもに分かるように話してほしいというリクエストがありました。ところがアメリカ生活48年の間、日本語で子どもにお話しをしたことがないので、どう準備してよいのか見当がつかず困り果てました。

祈りました。

大人の礼拝では、きちんと原稿を書く習慣がついています。しかし、今回はその原稿がどうしても書けずに講壇に立ちましたが、聖霊様の導きと助けにより、自由に語ることができました。

洗礼式は、喜びのときであり、特に天上においても大いなる喜びがある時です。受洗した本人にも感動の時であります。帰宅したわたしに、総司君からメールがありました。

「今日はわざわざサンディエゴからお越しくださり、ありがとうございました。こちらに着いた時から、洗礼を受けて吹上先生をお呼びするのをずっと楽しみにしていました。メッセージまで聞かせていただいて、本当に一生忘れらない日になりました」

総司君、受洗おめでとう! 信仰の成長を祈っています。

吹上

2008年10月6日月曜日

こいぬのうんち

あなたの大嫌いなものを3つ言え」と言われたら,わたしの場合、必ず入れるのが「犬の落し物」ですと..。

「こいぬのうんち」DVD(ビデオメーカー)についての記事の中で、Fさんはこのように書いておられます。

他人の犬の落し物を、毎日始末させらているうちに、ノイローゼ状態になられたというのです。

そんなFさんとは打って変わって、私のブログ(インターネット)の師匠、Mさんは、毎月曜日に裏庭で愛犬のうんこ取りをされるようです。それはそれで毎週楽しくやっておられるようです。

月曜日といえば、多くの牧師たちは休みの日です。

ある牧師は、子供さんが学校に行っておられる間、夫婦水入らずでコーヒを飲みながら会話を楽しまれるというのです。コーヒがおいしくなるでしょうね。これは夫婦の大切はコミュニケーションのときです。毎週続けてください。

私は、ネコもいなくなったので、落し物の始末はなくなりました。毎日が休みの日(引退牧師生活)で、楽しくあれや、これやとやりながら生きています。

引退世俗老人の日々は感謝と喜びで満ちています。

吹上

2008年10月4日土曜日

77才にしては元気だなー

心臓につながる血管をひろげ、ステントを入れる手術を(2回)して、早くも2年と8ヶ月が過ぎました。その後、半年ごとに定期診察を受けています。

昨日その診察日であり、Dr.Gによる診察を受けました。EKGによる検診もしました。

診察が終わり、帰りかける私にDr.Gは「77才にしては元気だなー」と言われました。「どうして年令がわかるのか?」と問うと、コンピユータを指さして「ここに書いてあるよ」と笑っていました。

こちらもほめられたので、笑顔で「そうですか」と答え、握手して別れたことです。死線を越えてからは、本当に強められています。手術前は、疲れやすく、目まいがし、活気がない生活でした。今は、自分でも元気になったなーと驚くほどです。

特に食べるものにも気をつけていません。運動も休みがちです。(家内の首痛のため)

くよくよしない、いつも喜び、すべての事を感謝して生きています。心配すればきりがありません。神にすべてをゆだねて、思い煩わないことです。

これが世俗老人の元気な秘訣でしょうか。

吹上

2008年10月3日金曜日

みてのなかで

私の時は、あなたの御手の中にあります

詩篇31:15

今朝の聖書通読のときに、心に残った御言葉です。

「時は」とあります。詩人は悩み、苦しみによって、身も心も衰えており、消え行くような時に置かれていました。

「私のいのちは、苦しみで消え行き、私の歳月は嘆きで過ぎ去り、私の力は、苦しみで尽き果て、私の体も衰えてしまいました。、、私は、死人のように、人々から忘れられ、壊れた器のように見捨てられました」(詩篇31:10,11)

壊れた器のように、見捨てられるという悲惨な時でした。

私の人生にも、悲しみの時、苦しみの時、悩みの時、人に捨てられる時、いろいろな時がありました。

その時に、だれの御手の中に生かされているのでしょうか。自分にさからう敵の御手でも、苦悩の中でもなく、神の御手の中にあるのです。

たとえ、すぐに助けてくださらないように見える時も、御手の守りを信じて、心安らかに信頼していきたいです。赤ちゃんが、母の腕の中に安らかに眠っているように。

み手の中で  全ては変わる感謝に
我が行く道に 現わしたまえ
あなたのみ手の業を【リビングプレイズ13番より】

私の大好きな賛美です。

吹上

2008年10月2日木曜日

かゆみを止めるよい方法はないでしょうか?

家内の首痛は、今も続いていますが、(9月24日に書きました)10日ほど前から、私も背中がかゆくて,痒くて戦いです。

首の痛みに比べると、とりあげるほどではないのですが、どんなことでもその本人は辛いのです。犬が、足で(手?)かきむしっている気持ちが分かるようです。血を流すほどです。(すこしおおげさかなぁー)


私の皮膚がよくないのか、年に2,3回痒みが襲います。以前にはよく効いたぬり薬もききめがなく、アロエ軟膏もやってみましたが、、。かゆみを止めるよい方法はないでしょうか、あれば教えてください。

ブログを書くより、かゆみの解決が第一だと思いつつも、やっぱり何かを書かなければと、背中をかきつつ(頭も)ペンを走らせています。

よい知らせを待っています。

吹上信一

2008年10月1日水曜日

輝いて生きる世俗老人でありたいと

他人を成功あるいは失敗で判断します。、、人間の成熟は、成功よりも失敗や試練を通してこそ実現されるということです。また健康な人たちよりも、病気の人たちの中に真に人生を生きている人たちがあるものです。しあわせを求めるあまり、もっと富がなければならないとか、

もっと才能がなければならないと、あせって不幸せに沈んでいる人たちが案外多いかと思えば、試練や失敗に苦しんでいるように見える人たちの中に、ほんとうのしあわせに輝いている人が少なくないということも知りました。【トウルニエ博士の講演「人間性探求の旅」】

私の人生をふりかえってみれば、成功よりもはるかに失敗の多い歩みでした。

富とか才能とかを求めて、あせったりはしませんでしたが、失敗だらけの人生でした。でもその失敗を通して、自分の無力や傲慢を痛いほど教えられたことでした。

思うように事が進まないことによって、へりくだりを学んだり、神に祈り求めなければならないことを知りました。

人は失敗や病気をしなければ、とは言うつもりはありません。そのような辛い経験が無いほうがよいことでしょう。

しかし、そのようなことによって、人生が豊かになり、人間性を深め、人の痛みや悲しみに少しでも心から同情できるものになれるのではないでしょうか。

ほんとうのしあわせに輝いて生きる世俗老人でありたいと願っています。

吹上