2008年12月31日水曜日

きようまでまもられ

われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。(詩篇90;9)

この一年もあっという間に過ぎ去ったようです。人の一生も、神の目からみればひと息のようであります。


飛び去るような早い一年でした。そしていろいろな事のあった年でしたが、今日まで守られ、導かれてきたことを心から感謝して、新しい年を迎えたいと思っています。

きようまでまもられ きたりしわが身
つゆだにうれえじ  ゆくすえなどは
いかなるおりにも  あいなるかみは
すべてのことをば  よきにし給わん(聖歌292番)

よわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年にすぎません。、、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。

同90:10


一年の歩みを感謝して..


吹上

2008年12月30日火曜日

主に祭壇を築いたアブラム

アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。

創世記13:18

ロトと別れたアブラムは、ヘブロンに天幕(住家)を移し、そこに住みました。ヘブロンはエルサレムの近くで、高い所にあります。

移り住んだアブラムが、その所で最初にしたことは、主に祭壇を築いたことでした。このことは、アブラムが神と共に歩む生活を意味しています。

私にとっての祭壇とは、礼拝を守る生活、毎日の生活の中にデボーションがあるということです。

デボーションとは「静思の時」であり、聖書を読み、祈り、神と共に過ごす時間であります。神とお会いする特別な時間、デボーションを、日々持っことは信仰者には欠かせない大切なことであります。

ロトの目は、この世の豊かさに向かっていました。その果ては破滅でした。(そのことはいつか書きます)しかし、アブラムは神に目を向け、祭壇のある生活を選びました。

新しい年も、主に祭壇を築き、神と共に歩んで行こー!

吹上

2008年12月29日月曜日

すべての物を持っている

何も持たないようであるが、すべての物を持っている

コリント人への第二の手紙6:10


パウロは、この世の物質的なものは、何も持たない貧しい生活であったようです。しかし、キリストを持っていました。

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」(同4:7)

宝とはキリストであります。ゆえにパウロは「すべての物を持っている」と言えたのです。人は「土の器」であって、もろく、壊れやすい存在です。そのような器にすぎないにもかかわらず、キリストを持つ特権が与えられているのです。

キリストという宝は、宝の中の宝であり、永遠の宝であります。

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない。(ヘブル人への手紙13:8)

いつまでもは、ある訳では「永遠に変わることがない」とあります。キリストを持っ人は、すべての物を持っているのです。永遠に生きる存在です。

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)

神より賜ったキリストを信じること(受けとること)によって永遠の命を得ることができるのです。

吹上

2008年12月27日土曜日

ヘロデ王の立腹

さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。

マタイによる福音書2:16


他の道をとおって自分の国へ帰って行った博士たちでした。そのことをヘロデ王はだまされたと思い、非常に立腹しました。

拝みに行けなかったからでしょうか。そうではありませんでした。キリストを殺す計画ができなかったゆえです。

そこで、非道で知られるヘロデ王は、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその付近の地方にいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺したというのです。(同2:16)
その二歳以下の男の子の中に、幼な子イエスはおられたのでしょうか。

博士たちが他の道をとおって帰って行ったのち、主の使いが夢に現れて「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」と告げました。そのことばに従って、ヨセフは夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプト行き、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていたというのです。(同2:13−15)

神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。

詩篇46:1


吹上

2008年12月26日金曜日

他の道をとおって

そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。

マタイによる福音書2:12


他の道をとおって自分の国に帰って行ったのは博士たちです。

彼らは、ユダヤ人の王としてお生まれになったかたを拝むためにエルサレムにやって来ました。そのうわさを聞いたヘロデ王は不安を感じ、祭司長や民の律法学者たちを全部集めて、キリストはどこに生まれるかと問いただしました。

さらに、ヘロデ王はひそかに博士たちを呼んで、そのことについて詳しく聞き、ベツレヘムにつかわし「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」と言いました。
ヘロデ王にキリストを礼拝する敬虔な思いがあったのでしょうか。そうとは思いません。

博士たちは、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、非常な喜びにあふれ、ひれ伏して拝みました。そして、夢でヘロデ王のところに帰るなとのみ告げを受けて、他の道をとおって自分の国に帰って行ったのです。他の道をとおらないで、博士たちがキリストの誕生された場所をヘロデ王に伝えていたらどうなったでしょう。

わたしが、キリストに出会い、救われ、献身し、信仰に生きなかったら、どのような人生を歩いてきたでしょうか。他の道を歩み、今のような喜びにあふれた老後の生活はなかったでしょう。
キリストとの出会いを心から感謝します。

吹上

2008年12月25日木曜日

イエス・キリストのご降誕を心からお祝い申し上げます。

イエス・キリストのご降誕を心からお祝い申し上げます。

皆様の上に、神の愛が豊かに注がれ、喜びが一杯の日でありますように。

喜べないような事情や試練の中におられる方々の上に、神の慰めと、力づけ、癒しがありますようにとお祈りします。

キリストを救い主と受け入れて洗礼を受け、60回目のクリスマスを迎えます。初心に還りキリストに仕えて行きます。

吹上

2008年12月24日水曜日

救い主に会うまでは

救い主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた

ルカによる福音書2:25−26


この示しを受けていた老人シメオンは、正しい信仰深い人であり、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。そして救い主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていました。

彼が御霊に感じて宮にはいったときに、イエスと両親に会いました。シメオンは幼な子を抱き,神をほめたたえて言いました。

「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いをみたのですから。この救いはあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」(同2:29−33)


私の人生は、この世の楽しみだけを求めていくのではなく、救い主に会うための人生でした。

イエスに出会い、神の救いを見たといって安らかに死んでいくことのできる人は幸いです。安らかに死んでいける道、その救い主イエス・キリスト様に出会いませんか。

「あなたの神に会う備えをせよ」(アモス4:12)

吹上

2008年12月23日火曜日

喜びの日

彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。

マタイによる福音書2:10


東からきた博士たちが、エルサレムに着いたとき「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか」と尋ねました。

このことを聞いたヘロデ王は不安を感じました。その後、博士たちはベツレヘムに出かけたとき、東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいるところまで行き、その上にとどまりました。

博士たちはその星を見て「非常な喜びにあふれた」というのです。

彼らは家に入り、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬などの贈り物をささげました。(マタイによる福音書2:1−11)

羊飼いたちに告げられたことばは「すべての民に与えられる大きな喜び」でありました。博士たちは星を見て「非常な喜びにあふれた」とあります。それは星そのものよりも、導かれた所で、幼な子イエスに出会えたことによる非常なよろこびであります。

クリスマス、それは非常な喜びの日であります。わたしたちのために救い主がお生まれになった日です。

吹上

2008年12月22日月曜日

恐れるな

恐れるな、見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える

ルカによる福音書2:10


クリスマスのメッセージは「大きな喜び」であります。

羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた時、主の御使いが現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れました。

その羊飼いたちに、御使いが最初に語ったことばは「恐れるな」でありました。恐れていないものに、このことばは意味がありません。しかし、主の栄光の光に照らされて非常に恐れていた羊飼いたちにとっては、大きな慰めのことばであります。

今は、不安と恐れがただよっている時と言えるでしょう。経済的な不安、人間関係の問題、仕事の不安定、テロの問題、その他多くの不安と恐れがあります。

「恐れるな」という言葉が語られています。それを聴くひとには平安が与えられるでしょう。

次に、「見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを伝える」と語られました。
その大きな喜びとは「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである」(同2:11)

キリストの誕生、それは大きな喜びのおとずれであり、救い主の誕生であります。しかも「すべての民に与えられる大きな喜び」であります。わたしの救い主であるキリストを心に受け入れ(信じ)大きな喜びをもって、クリスマスをお祝いしましょう。

吹上

2008年12月20日土曜日

歩きかた

あなたがたの歩きかたによく注意して、、賢い者のように歩き、、。

エペソ人への手紙5:15


昨日は車中からの見学を書きました。もう一つの見学は、歩きかたでした。

急いで歩いている人、走っている人はほとんどありません。ゆっくりと自分のペースで歩いている人、背中をピーンとして歩いている人、背中を曲げて歩いている人(少ないです)それぞれのスタイルで歩いておられます。

自動車を意識しないで、しゃべりながら真ん中を歩いている人たちをよく見ました。

歩きかたとは、生きかたでもあります。「歩きかたによく注意して」とは、生き方に気をつけることです。賢い者のように歩くとは「神にならって」生きることです。

「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい」(同5:1)
                                    
「キリストの福音にふさわしく生活」することです。(ピリピ人への手紙1:27)


そのような生きかたをするには「今の時を生かして用い」ること「主の御旨がなんであるかを悟り」「御霊に満たされて」(エペソ人への手紙5:16−18)いくことです。

今日も歩き方に気をつけて行こー(かっぱさんにならって)

吹上

2008年12月19日金曜日

顔と服装

家内が買い物をしている間、車の中から店に出入りする人々を見ていました。

アメリカは人種の坩堝といわれる国ですから、顔も種々であります。それぞれの国柄を表現しているようです。疲れた顔ではなく、いそいそと楽しく歩いている顔が多いように思いました。

家族が帽子をかぶっている人々、肌寒い日であるのに半袖の人、そうかと思うと真冬に着るような厚着の人、自分の好きなものを着ておらるのでしょう。

日本では、男性は黒い服にネクタイ姿が多いようですが、ここではほとんどネクタイ姿の男性を見ませんでした。髪の毛の色も白髪の人,黒髪の人、金髪、銀髪の人々と様々です。

買い物で歩き回っているよりも楽しい見物でした。かくゆう自分はだぶだぶのズボンにぞうりばきで、人の中に出て行けない姿でした。(それで車中からの見学?でした)

自動車の前をゆうゆうと歩いていく人、わたしなら自然に走ってしまうのですが、、。わが道を堂々と歩いている人の姿に学ばなければと考えていました。でもその場になるとやっぱり小走りすることでしょう。

環境でしょうか、育ちでしょうか、自分の性格でしょうか、何年アメリカにすんでいても、若い時の習慣が出てしまうようです。

アメリカ人になれない(なるつもりもないのですが)日本人気質のしみついた世俗老人のわたくしでございます。

吹上

2008年12月18日木曜日

ブータン(インドとチベットに挟まれた王国)の人は、日本人の顔によく似ていると言われます。ところが現地に行って、よく見ると両者の違い(特徴)がよく分かってくるというのです。

「ブータンの人は日本人によく似ているが、ずっと透明感がある。日本人の顔からいらいら、こせこせ、せかせかの感じを取り去って、日焼けした顔にすればこうなるかな、などと思います」と現地を訪ねた人が書いています。

いらいら、こせこせ、せかせか、これが日本人の特徴でしょうか?たまたまにしか訪日しないわたしにはくわしいことは分かりません。

今回の訪日中、一度ですが通勤時間帯に、電車に乗ったことがあります。まさに通勤地獄?のようでした。入口に立っていると奥に押し込まれ、身動きが出来なくなり、体が傾いたまま立っていました。これではいらいらさせられることでしょう。

駅の構内や、人通りの中を歩いている人も、せかせかしている様でした。(走っている人もいます)電車のなかで、座している人々、立っている人々の顔は疲れている様でした。じっと神経質にみっめている人々もよく見かけました。

ゆとりのある顔をしている人、幸せな顔をしている人は少ないような気がしました。自分もそんな顔に見られているのではないかと思いながらの感想です。

吹上

2008年12月17日水曜日

いろいろなことを体験

無事サンディエゴに帰りました。旅の安全のためにお祈り下さったことを感謝します。

シャトルからサクラメントの南にあるElk Groveに移転してきた次女の家族を訪ねました。

6日のサンディエゴ空港は、晴天でしたので(日本行きのように霧の問題はない)無事に離陸しました。ところがサクラメント空港は濃霧のために視界はゼロに近いものでした。(わたしの目では)それでも飛行機は下降しました。窓にしがみつくようにして外を(地上を)みるのですが何も見えませんでした。

これで大丈夫なのかしらと案じたことでした。すると突然滑走路が見えたと思ったら、一秒ぐらいでしょうか、瞬間に地上にタッチしたのです。そのとたにガクンと大きな音がして、体が飛び上がるような衝撃を感じました。乗客はあーと叫んだことでした。(わたしもでした)でもしばらくして拍手があり、笑い声が起こりました。

このような大きな衝撃は初めての経験でした。飛行中もひどいゆれでしたので、静かに心のなかで祈っていました。

16日の夕方は、問題なくサンディエゴ空港に着陸しました。最近3回も空港で、いろいろなことを体験しました。

人生何が起こるか、一瞬先が分かりません。

吹上

2008年12月13日土曜日

こうしなければ

一途で、まじめな人は「こうしなければ」という特別な考えにとわれやすいのではないでしょうか。

白か黒か、イエスかノーかをはっきりしたいのです。また、こうしたいということができない、希望どおりにならないということで失望して、生きることに疲れてしまいます。

Must−ねばならないと考えてしまうこともあります。「しなくてはならない、こうなければ、、」とがんばるのではなく、別の方法を考えてみることも良いのではないでしょうか。

世俗老人はこの歳になってはじめて、人生は、一つだけの道があるのではなく、違った道、別の生き方もあるのだとゆうことが解ってきました。

挫折があれば考え直して、他のやり方や、生き方を探してみてはどうでしょうか。

私にも一途なところがありますが、また、ふまじめなところもあります。それでこの道、あの道をと手探りをしながら、今日まで生かされてきました。これからもそう生かされていくことでしょう。

吹上

2008年12月12日金曜日

イエスさまのことばに聞き従いませんか

人をさばくな。自分がさばかれないためである。

マタイによる福音書7:1

人のことばに心が動かされます。特に批判的なことばによって心が傷つきます。でも建設的なことばであれば、それは有意義です。

私は人をさばき,単なる批判に過ぎないことばなら、口に出さないほうがよいと思っています。人の徳を高め、勇気を与えるようなことばを語るものでありたいです。

人をさばけば、同じように自分もさばかれることになるでしょうし、人の良さを認め、励ましのことばを語るなら、人も私を励まし、勇気づけてくれる事でしょう。

なんでも批判したい人がいます。批判したい人の言葉に心をうばわれそうな時、あなたを愛し、理解し、励ましてくれる人のことばに耳を(心を)傾けることです。

「人をさばくな」と教えられたイエスさまです。わたしを、あなたをさばかず、ありのままで受け入れてくださるのです。

イエスさまのことばに聞き従いませんか。前向きな、建設的な人生が与えられます。

吹上

2008年12月11日木曜日

目を上げて

ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと

創世記13:10


ロトがアブラムと別れた後に、主はアブラムに言われました「目をあげてあなたのいる所から北,南,東、西を見わたしなさい」と。(同13:14)「目を上げて(10節)「目をあげて}(14節)

ロトとアブラムの目の上げかたは同じではありません。ロトの目は、潤っている土地を、この世的な豊かさ、欲をもって見ているのです。そして、その土地を選びました。ロトは、目に見えるもの、目先のこと、この世的な豊かさ、自分の欲をもって見ました。

アブラムは、主のことばに従って、信仰的な目をもって見ました。土地よりも、神を見るということでしょうか。アブラムは、信仰によって、目先のことよりも、世的な豊かさよりも、神にある豊かさを、未来のこと、永遠のことを見ての選びでありました。

吹上

2008年12月10日水曜日

あえて選ばれたのである

そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。

創世記13:11


アブラムの申し出は、ロトが左に行けば、わたしは右に行くということでした。

ロトは目を上げてヨルダンの低地を見ました。そこはエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っているところでした。ロトはその肥沃の地を選び、そこに移っていきました。

アブラムは神にすべてをゆだね、優先権をロトに与えました。彼は目に見える選択をしませんでした。

ロトは信仰による選択よりも、目に見えるもの、この世の豊かさに向けられていました。


神は,知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである

コリント人への第一の手紙1:27−29


私の好きなみ言葉「神は,無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」

「あえて」とは、知らないで選んだというのではありません。無きに等しい者、無力な者であることを、よくよく知っていて選んでくださったのです。そうでなければ、私などは選ばれなかったでしょう。

主よ、感謝します!


吹上

2008年12月9日火曜日

勇気を出しなさい

あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている

ヨハネによる福音書16:33


この世の生活には、数々のなやみがあります。そして勇気を失うこと、恐れを持つことがあります。ではどうすれば、そのなやみや、恐れに勝ち、問題に立ち向かうことができるのでしょうか。

「勇気を出しなさい」と語られるイエスさまのことばを聞くことです。この方は、数々の試練に勝利をされたのです。わたしたちに勇気を与えることができるのです。その勇気を持って問題に直面し、困難や試練を乗り越えていくのです。


神に勇気を与えられて、しりごみをせず前進しましょう。

世に勝っておられるお方の「勇気を出しなさい」とのお言葉を信じて。

吹上

2008年12月8日月曜日

蛇口をきちっとしめる暮らし

人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」

マタイによる福音書6:12


イエスはパンの残りを捨てないで集めるようにと言われました。今は残飯整理などはなく、捨てられることが多いようです。わたしはもったいない精神旺盛です。(それで肥りすぎです)


「幼いころの思い出では、母は水をむだにしなかった。歯を磨くのはコップ一杯の水ときまっていた。蛇口をきちっとしめる暮らしの中で育った。一度使った水もむざむざ捨てるとおこられ、お米のとぎ汁は洗濯に使い、野菜のゆで汁は植木鉢にやるという暮らしでした」

女優の沢村貞子さんの随筆に書かれている文章です。

わたしも、同じような思い出があります。水不足のため大切に使ったこと。一粒の米もむだにしなかったこと。(幾日も米を食べない日がありました)その他。

先日のことですが、あまりにも水代の支払いが多いので、米のとぎ汁や、風呂の水までも畠に運びました。でも老人には重労働なのでやめました。(笑)今の生活はむだが多いようです。

戦中、戦後の質素な生活を経験した私ですが、贅沢になれると、欠乏の時代がやってきたら耐えるのが困難なことでしょう。

「わたしは飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に処する秘訣を心得ている」(ピリピ人への手紙4:12)

吹上

2008年12月6日土曜日

絶対に、絶対に、絶対にあきらめるな

最後まで耐え忍ぶ者は救われる

マタイによる福音書10;20


私は物事が長く続かない、忍耐が無い、粘り強さがない、あきらめることの早い人間です。

でも、信仰だけは試練の中にも耐えて、今日まで持ち続けてこられました。主の許に召される時の、最後まで(死に至るまで)持続したいと祈っています。

英国のチャーチル首相は「絶対に、絶対に、絶対にあきらめるな」ということばを座右の銘としていました。

あきらめない、粘り強い、スポーツの世界ではそれが勝利を得る道です。

人生の戦いにも、同じことだといえるでしょう。人生には障害がつきものです。試練や困難もあります。しかし、あきらめず、夢を抱き、前進していくことです。

ゴールドラッシュの時、土地を買い、何日も堀り続けたのに、金鉱は見つかりませんでした。あきらめて土地を売りました。ところが、その土地を買った人が、さらに掘り続けたところ、一メートル先から金鉱が発見されました。もう少し辛抱して、堀り続けていたら、億万長者になっていたのです。

あきらめないで、もう一メートル先に進みませんか。

吹上

2008年12月5日金曜日

逆境の日には

逆境の日には考えよ
順境の日には楽しめ
逆境の日には考えよ  

伝道の書7:14

人生は順境の日々ではありません。必ず、いつかは逆境の日がやってきます。これが世の常です。

順境の日には楽しみましょう。そうでない逆境に日には考えましょう。

では、何を考えたらよいのでしょうか。

逆境はいつまでも続くのではないこと。試練にはのがれる道があることです。

あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道を備えて下さるのである」(コリント第一の手紙10:13)


「雨風は材木を強くする」という格言があります。またナポレオン・ヒルは「すべての逆境には、それと同等かそれ以上に大きな恩恵の種が含まれている」と言っています。逆境にさらされて、人は強くされ、逆境の大きな恩恵に預かるのでしょう。


「患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである」(ローマ人への手紙5:3−4)

逆境の日には考え、喜びましょう。それはマイナスではなく、プラスになる、何かを私たちに生みだしてくれるからです。

吹上

2008年12月4日木曜日

目標達成に向かって

あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト:イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。

ピリピ人への手紙1:6


このみことばが与えられ、早期退職をされたU兄は、神学校に入り、卒業後10年ほど牧会をされ、健康すぐれずリタイヤーされました。

あなたに、良いわざを始められた神は、目標達成のために知恵や力を与えて、それを完成して下さるのです。(年令にかかわらず)

あなたの目標は何でしょうか。その目標に向かって全身全霊を打ち込むならば、神のたすけによって実現するのではないでしょうか。

「できるはずがない」
「誰もできなかった」
「失敗するにちがいない」

などの言葉に支配されないで、神によって可能となると信じて、目標達成に向かって進み出してみませんか

吹上。

2008年12月3日水曜日

神と人とを全身全霊で愛する

ジョン:ロックフェラーは「幸せを手に入れる方法」は二つの単純な原理にあると言っています。「まず、自分にとっての興味のあることで、しかもうまくできることを見つけ、次に、それに対して全身全霊を打ち込むだ」と。

自分にとっての興味あることは何か?
あれか、これかと考え込んでしまいます。

さあ、全身全霊をもって打ち込める、何かを探そう!

あなたも探してみませんか。

イエスは言われました「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイによる福音書22:37−39)

神と人とを全身全霊で愛する、そこに幸せがあるのではないでしょうか。

吹上

2008年12月2日火曜日

望みを捨てない

信仰の迫害を受け,捕らわれ身であったパウロは、ローマ帝国の最高権威者カイザルのもとで裁判をうけるために、船で行くことになりました。その船には276人が乗っていました。ところが航海の途中で暴雨に遭遇しました。

パウロは三度も難船し、一昼夜海の上を漂ったことがありました。その体験から、航海するのは危険な季節であると提言しました。しかし、百卒長や人々は、パウロの意見よりも、船長や船主の方を信頼しました。

「時に、南風が静かに吹いてきたので」(使徒行伝27:13)船出しました。順風に乗っての航行でしたが「すると間もなく、ユーラクロンと呼ばれる暴風が、島から吹きおろしてきた」(同27:14)というのです。そのために積荷や船具までも投げ捨てました。

「幾日ものあいだ、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みもなくなった」(同27:20)というのです。嵐のために、人々は14日も食事をしないほどでした。

そこでパウロは「元気を出しなさい」と励まし、また食事をすることをすすめ、自らパンを取り、みんなの前で神に感謝し、それをさいて食べはじめました。(同27:35)そこで、みなの者も元気づいて食べはじめました。

最後には船は浅瀬に乗りあがりましたが、全部の者が上陸して救われました。

最後まで望みを捨てないことです。

吹上

2008年12月1日月曜日

雨にぬれそぼち

数ヶ月も雨の降らないサンデイェゴですが、めずらしく恵みの雨が降りました。静かな夜中に、雨の音を聞くのも久しぶりでした。

雨の多い日本ではぬれるのは好まれないことでしょう。

こちらでは、子供たちは喜んで雨の中を歩いています。雨にぬれない日が多いので、珍しい雨のゆえに喜んでぬれるのでしょう。

雨にぬれそぼちという聖歌があります。(499番)

あめにぬれそぼち たどる世のみち
わが荷たえがたく おもきおりしも
主なるイエス君 みかおかがやき
負える荷はいつか きえてあとなし

あめにぬれそぼち(濡れてびしょびしょになること)この世の道をたどる足どり、しかも背中には重荷を負い、やりけれない思いになっている姿です。

そんなときに、イエスさまの輝くみ顔を仰ぎ見ることができたら、その重荷は消えていくのです。
雨に濡れ、重くなった荷を背にして、遠い道をたどたどしく歩く生活から、輝いた希望と喜びに満ちた人生を歩いてみませんか。そんな人生があるのです。

主にすがるわれに なやみはなし
十字架のみもとに 荷をおろせば
うたいつつあゅまん ハレルヤハレルヤ
うたいつつあゅまん この世のたびじを (498番)

吹上