2008年8月30日土曜日

心の雑草

御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容,慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これを否定する律法はない

ガラテヤ人への手紙5:22−23

我が家には、小さな箱庭が幾つかあります。

木で箱を作り、そこに土を入れ、そこに野菜を植えて成長を楽しんでいます。実際にやってみて、いろいろなことを教えられています。

太陽の光がよく当たるところと、日陰の多いところでの育ちは違います。(日陰の好きな植物もあります)

神の恵みの光を受ける程度によって、人の霊的な成長も違ってくるでしょう。いのちの光であられる神の恵みを心一杯にうける毎日でありたいですね。

水も大切です。やりすぎると根が枯れることもあります。不足すれば成長がおそいです。適度の水をやることに失敗し、水をやりすぎてしまうのです。(早く育てようと)

水は聖霊を示すと言われています。

「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。(ヨハネによる福音書7:37−39)

聖霊の満たしには、多すぎるということはないでしょう。日々聖霊に満たされ、導かれる人は幸いです。

堆肥も必要です。水だけでは十分ではありません。野菜のごみや落ち葉(腐葉土)などを土に埋めることです。(毎日穴堀りです)そうでないと成長は期待できません。

土つくりは大切です。特に雑草を取ることが大切です。そうでないと、野菜よりも成長が早く、結実を期待するこはできません。(雑草は強く,どんどんと大きくなります。)

人の心の雑草も取り除かないと、良い行いの実(御霊の実)を結ぶことは困難でしょう。

世俗老人の心も、神のことばによって、砕かれ、やわらかくされ、素直にされることを日々祈っています。

吹上


2008年8月29日金曜日

世俗老人の心を豊かにする神の御言葉

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためである」

ペテロ第一の手紙2:2

何不自由のない、ものが豊かな生活であれば、人は心の豊かな日々を過ごせると思うのですが、どうもそうではないようです。

ものは物であって、心を養い、豊かにしてくれる物ではないようです。

終戦後のもののない時代、辛抱を強いられた日々の生活、それだけに今の社会に見られるような心の問題がなかったように思えます。

巷には物があふれ、感謝する心がうすれ、さらに欲望だけがつのります。だからこそ、心の糧をとることが大切ではないでしょうか。

人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである

マタイによる福音書4:4

パンも必要ですが、それだけではなく心の糧、神の御言葉が、唯一この世俗老人の心を豊かにするのです。

吹上


2008年8月28日木曜日

ペテロの晩年

よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯をむすびつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう

ヨハネ21:18

礼拝で「ペテロの晩年」について語りました。

若いときのペテロは、自分で帯をしめて、自由に自分の思いのままに歩きまわりました。しかし晩年には、ほかの人が帯を結びつけてくれ、手をとって行きたくない所へ連れて行くであろうというのです。

このようなことは、わたしたちの人生にも起こることであります。

自動車を使って、自分の行きたいところに、自由に動いていたのに、高齢や病気などで運転ができなくなると、他の人のお世話になるのです。

私の好きなヘルマン:ホイヴェル師の友人から贈られた詩の一節です。

「若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人の役に立たずとも、親切で柔和であること、老いの重荷は神の賜物、、、」

「謙虚に人の世話になり」という言葉のように、素直に人の親切をうける世俗老人の晩年でありたいと思います。

吹上

2008年8月27日水曜日

わたしの平安(2)

死を前にしても奪われない平安、それはどのようにして得られるのでしょうか。

イエスさまは、次のように語れました。

「わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない」(ヨハネ14:30)

「この世の君」とはサタンでありますが、イエスさまに対して何もすることができなというのです。それゆえに十字架刑の死を前にしても平安を持っておられました。

「わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである」(同14:31)

イエスさまが、父なる神を愛し、全く服従しておられるお姿です。

この神への信頼、全き服従、そして神を愛し、神に愛されている確信のゆえに、どのような苦難の中にあっても、また死を前にしても奪われない平安を持っておられました。

「わたしをつかわされたかたは(父なる神)わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになることはない」(ヨハネ8:29)

神と一緒におられるということから来る平安です。

聖歌の中に「主のやすき 主のやすき

        われはうちに 今もてり」とあります。

明日ではなく、今、あなたは主イエス・キリスト様の平安を持っておられますか。

吹上

2008年8月26日火曜日

わたしの平安

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな

ヨハネによる福音書14:27


この度の北カリフォルニア行きの用件は、W教会でメッセージをお伝えすることでした。

その礼拝メッセージで語ったのが「わたしの平安」とゆう題でした。イエス様の持っておられた平安であります。

人は死を前にすると不安になることでしょう。イエスさまは、その死、十字架刑による最も残酷な死でさえも奪うことのできない平安を持っておられました。その平安を、わたしは残して行く、与えると約束されました。

その平安は「イエスの遺産」と言ってもよいでしょう。この世の与える遺産は、金銀や物でしょう。しかし、イエスさまはこの世のものとは異なる、この世の何物も与えることのできない「平安」を遺産として残してくださったのです。

この平安は、この世だけのものではなく、神の国につながる、永遠の祝福であります。ゆえに死を前にしても心は平安であり、天国への希望に輝いて生きることができるのです。

吹上

2008年8月25日月曜日

孫たちと遊ぶ(2)

翌日、ヘイワードの長女宅から、1ヶ月前にサクラメントに移って来た次女のアパートを訪ね、孫たちにも会うことができました。

彼らがシャトルに住んでいたときは、年に一度訪問したことでした。彼らも同じように一年に一度ほどサンデイェゴを訪問しました。孫たちは会うたびに成長しており、会話もしっかりとしてきました。それに比べ自分は成長していないと反省させられます。

この孫たちも、ヨーバリンダに住む孫たちと同じように「おじいちゃん」と日本語で呼んでくれます。でも後は英語だけです。

孫たちに日本語を期待するのは無理です。娘たちが日本語が話せないのですから。日本語を学ばせたこともありましたが、ものにはならず残念に思っています。

大学時代に日本語クラスに入ったのですが、それも役立たずに終わりました。

孫たちのすぐ近くにプールがあり、毎日のように泳いでいます。この前よりもよく泳げるようになっていました。男の孫はスクータで走りまわっています。その元気な姿に驚くばかりです。

自分もそのような時があったのにと思いながら、可愛い孫たちを見守っていました。

吹上

2008年8月23日土曜日

足を洗う

自分は神から出てきて,神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。

ヨハネによる福音書13:3−5


W教会でのご用のために北カリフォルニアへ。

家内と車で行く予定でしたが、関節炎からくる首の痛みのために中止。この度は飛行機で行く事になりました。

オークランド空港には長女が迎えに来てくれました。婿さんと二匹の犬に歓迎してもらいました。黒犬がアキ、白犬がクマ、日本からアメリカに移住した犬であります。でも英語のほうが分かるようです。

台所で立ち話しをしていると、その二匹の犬が片足づつをペロペロとなめてくれるのです。愛情を示してくれるのでしょうか?それとも汚れた足をきれいにしてくれるのでしょうか。

その時にイエス様の洗足を思い出しました。

当時は、足を洗うことは奴隷の仕事であったようです。その洗足をされたイエス様に深く教えられます。

吹上

2008年8月22日金曜日

アメリカでの生活(7)

サンタクララ教会はシリコンバレーにあり、日本からの駐在員家族の方々が多い地域でした。子どもさんを連れた若いお母さんたちへの伝道が中心でした。

日本で信仰を持たれた方々が中心になって伝道の働きがすすめられました。沢山の方々が聖書や子供の教育について学ぶために来てくださいました。

ただ残念なことは数年の滞在で帰国されることでした。日本のミッションに働き人を送り出す思いの伝道でした。今も日本でよい働きをしているか方々がおられ、とても嬉しく思います。

年齢を重ねるにつれ、少しずつ霊肉ともに弱きを覚える年令になりました。

これ以上奉仕することは、教会の成長にならないと感じていました。その事情を理解していただいて転任いたしました。

数ヶ月休養した後、1995年1月からランチョラコスタ教会での牧会をはじめました。この教会での働きは2年と数ヶ月でした。私たちは遠距離に住んでいましたので、充分な牧会ができないことに心を痛め、退職を決意しました。

いよいよ引退生活が始まったのです。

吹上

2008年8月21日木曜日

アメリカでの生活(6)

サンフェルナンド教会での奉仕は、2年という短いものでした。

新しいサンディエゴ教会では、10年間ご用をさせていただきました。その当時の北米ホーリネス教団の方針は、一つの教会での奉仕は4年から8年であって、その期間に転任するこになるというのでした。

その8年以上になるので、サンタクララ教会への転任の話があったとき、ためらわず決心しました。後日子供達は親しい学友たちと,住み慣れた土地を離れる事は辛かったということを聞いて、申し訳ない心で一杯でした。


現在は、教会でも奉仕を続けてほしい、本人もここで主に仕えたいという希望があれば転任することもないというようです。それは教会にも、牧師家族にもよいことでしょう。しかし、わたし個人の意見では、ある年月が過ぎたなら、牧師が変わることは、教会にも、本人にも新鮮なものが与えられるのではないかと思っています。

  あたらしき地に ふいいだす

  こころにそなえ ありや見よ

   (おりかえし)

  ヨシュアのごとく われもいわん

  「わが家とわれは 主につかえん」(聖歌584)

サンディエゴ教会では、もっとも働き盛りと言われる40才から50才の年月をご用することが出来て感謝でした。

それは、多くの方々の愛と労苦に支えられてのことでした。

吹上


2008年8月20日水曜日

アメリカでの生活(5)

ロサンゼルス空港に到着した私たちを、サンフェルナンド教会の英語部牧師Tご夫妻をはじめ、教会関係の方々が歓迎してくださいました。

家族が多いので、上下二つのアパートメントを借りる予定でしたが、直前になって一軒家をレントすることができほっとしたことでした。数年後その家を教会が購入し牧師館になりました。

当時は日曜日に働く人が多いので、土曜日の夜に礼拝を持っていました。それで各週ごとにサンディエゴ教会の礼拝や家庭集会のご用をするこができました。片道3時間ほどのドライブですが、若さのゆえに2年間奉仕をすることができました。

シカゴのような寒さもなく、子供たちは広い裏庭で楽しく遊ぶことが出来ました。学校生活を始めた子供もいました。

早朝の大地震で驚いたこともありました。教会の建物を案じ、我が家を飛び出して見に行ったことを思い出します。

この教会での2年という短い奉仕の後、サンディエゴ教会だけの牧会ご用のため転任しました。

1971年の夏でした。

吹上

2008年8月19日火曜日

「師」でなく「死」

わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである

ガラテヤ人への手紙 2:19−20

教会では、牧師である私の名前のあとには「師」がつきます。

吹上師

ある時、誤植で、「吹上死」と書いてありました。お詫びの電話を頂戴しましたが、私は大笑いをしたことでした。(読まれたひとは、まさかわたしが死んだとは思われないでしょうね)

この時、私は別の「死」(自我の死)を考えさせられました。

ある方が、生前に自分の葬儀をしてもらったということを読んだことがあります。死んでからではなく、生きているうちに、友人や知人に集まっていただきメモリアルサービスをするのも面白いことだと思いました。

思い出や失敗、欠点などを語ってもらうと、よい反省になります。残された余生が豊かな日々となるのではないでしょうか。

余生は、自我に死に、キリストに生かされる喜びにあふれて過ごします。

吹上

2008年8月18日月曜日

光輝高齢者

私は、自分はすでに捕らえたなどと考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト:イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

ピリピ3:13-14

1ヶ月ほど前に、裏庭に咲く朝顔について書きました。

その数は日ごとに増して、今朝は200を数えました。木を登り、塀を越えて、上へ上へと成長しています。

老いて下を見がちなわたしにとっては大きなチャレンジであります。

「上を向いて歩こう」ではありませんが、天に目をむけて、希望にあふれて生き続けたいと思います。

後期高齢者の仲間入りをしましたが、わたしは後期を「光輝」と勝手に考えています。天国に向かって光り輝いた日々を歩みたいと祈り励んでいます。

吹上

2008年8月16日土曜日

時に..(2)

わたしはあなたの子孫にこの地を与えます。

創世記12:7



神が最初にアブラムに語られ時は、アブラムが父との死別という悲しみの時でした。(創世記12:1)

二度目に語られたのはアブラムがカナンの地に導かれたときでした。「そのころカナンびとがその地にいた」というのです。この地が間違いのない土地であろうかという不安や疑いのあった時に、神様はアブラムに語りました。

神様は「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」(創世記12:7)と約束されました。この先住民のいる土地に導かれたことは、神の導きであったのです。

わたしのアメリカ行きもアブラム同様、時には思いもしない場所に導かれたことがありました。そして48年もこの地に住むことになるとは考えもしないことでした。

私の生活変化の背後にはいつも、アブラムと同じように神の導きあったことを,後に知ることが多くありました。時には自分の決断であっても、神は軌道修正をして、最善へと導いてくださいました。

神は人生の要所要所に、聖書の御言葉を通して私に語りかけ、導いてくださいます。

吹上

2008年8月15日金曜日

アメリカでの生活(4)

シカゴでの生活は、1960年の初夏からスタートしました。それから1969年の秋まで、様々な生活の変化や経験がありました。

日本では、社会人から神学校での学びに移り、卒業後5年の牧師としての働きがありました。

(この5年は大切なこと)アメリカではその牧師生活から、再び学生としての学びに戻りました。それは英語で苦労する4年の毎日でした。その間に、結婚、出産がありました。(そのことは後日書くでしょう)

学校での学び、パートタイムの仕事、そして教会でのアシスタントパスター(L教会)のご用もあり多忙な生活でした。

4年後、牧師としての資格で永住権を申請しました。そのときの一つの条件は、牧師としての経験が5年以上であることでした。感謝なことに日本で5年の牧会経験があつたことでした。問題もなく永住権を獲得することができました。

その後S教会に転任し4年ほど奉仕をしました。そのことが、今の北米ホーリネス教団とのつながりになり西海岸での牧会をすことになるのです。

わたし一人でアメリカでの生活をはじめたのですが、1969年10月は、7人家族(子供5人)と共に、シカゴを去り、S.F教会での伝道のためにカリフォルニア州に飛び立ちました

吹上

2008年8月14日木曜日

アメリカでの生活(3)

旅人をもてなすことを忘れてはいけません。

ヘブル13:2

汽車の中でのも一つの失敗があります。

車掌さんが、マクラと毛布を手渡してくれましたので受け取りました。しかもお隣のひとの分までもらいました。(ちょうど席をはずしておられたので)親切な車掌さんだと思ったのですが、それは有料でした。

請求された金額も分からない、お金の勘定もできないのです。

お金を手の上にのせて必要額を取ってもらいました。(勿論ふたり分です)やがてお隣のひとが席にもどり、そのマクラと毛布を使われました。しかし彼は幾らとも問いません。

わたしも幾ら払ったから、払ってほしいとも言えません。まあよいか、アメリカでのはじめての親切をしたと思えばよいと考えていました。(でも後で、この国では自分勝手な親切はしないことがよいということを知りました)

16時間後にシカゴの駅に無事に着きました。K夫妻や家族の皆様のあたたかい歓迎を受けました。

心からほっとした忘れられないひと時でした。

吹上

2008年8月13日水曜日

アメリカでの生活(2)

ニューヨークからシカゴまでの旅は汽車でありました。

それは話し相手もなく、車中では常に不安でした。英会話の出来ない私は、お腹がすいても食堂車に行く勇気もなく、16時間、ただただ水だけを飲むというハングリー(hungry)な、あわれな一人旅でした。

今だからニコニコしながら書いていますが、その時は泣きたいような心境でした。

その車中の失敗を読んで笑ってください。

水を飲もうとしてもカップがないのです。ふと下をみると多くのカップがありました。わたしは手をさし入れて一つのカップを取り出し、それで水を飲みました。

そして満足(お腹を満たし)して、ふと上をみると、新しいカップが置かれているのです。はっと気がついたことは、あのカップは何なのか? それはused(使用済み)でした。

あわてて新しいカップを抜き取り、それでうがいをしてから、水を飲みなおしたのであります。後味のわるい失敗でした。

でも「失敗は成功のもと」と言います。それ以来は長いアメリカ生活で二度と使用済みのカップを使ったことはありません。(笑)

吹上

2008年8月12日火曜日

アメリカでの生活(1)

貨物船「オレゴン丸」は南カリフォルニアにあるサンペドロ港に着きました。

そこで同船していた4名のお客さん全員が下船し、私だけがニューヨークに向けて航海を続けました。こんな客は珍しいということでした。

毎日景色の変化はなく、海、海、そして青い空でした。何もすることがなく、話をする客もないので、船内に置かれていた本をひたすら読み続けました。

船のおかげで、名前だけはしっていたパナマ運河を通過した時は、とても大きな感動を覚えました。

ひとつの枠の中に船をいれて、水で浮かばせ、次の枠に進むというのです。反対に船を下げる作業もありました。暑い熱帯地であり、濃いみどりの美しい印象が残っています。

ニューヨークにに入港し、移民官の検査をうけて、やっと陸地に足を踏み入れたことでした。

このアメリカで新しい生活がはじまるのだと心が燃えるよりも、不安の方が大きかったのです。

英語も分からず、この大陸で生活していくという不安は、いざアメリカに住んでみないと分からないことでした。

吹上

2008年8月11日月曜日

先住の民がその地にいた

アブラムの一行が着いたところは、誰もいない土地ではなく「そのころカナンびとがその地にいた」

創世記12:6

75歳のアブラムは、神のことばに従って旅立ちました。それはきびしい、危険な砂漠を越えてのことでした。

神が示され,導いてくださる新しい土地、そこは先住民もいない楽園のように考えます。しかしそうではないのでした。先住する人々がいるというのです。

アブラムの心には「ここが神の導かれた土地なのだろうか」という疑いもあったのではないかと思います。このようなことなら、ハランを出てくることもなかった、そこにはまだまだ開拓する土地もあったのにと考えることもできます。

今までにまさる乳と蜜の流れる土地ではないのです。先住民がいる、何故そのような所に住まなければならないのか。ここが来るべき場所であったのか?別の場所があるのではないかという思いがあったことでしょう。

アメリカに来て、日本では経験しない問題や苦労を重ねたとき、わたしが来るべき場所ではなかったのではと考えたことがありました。

日本にいたならこんなことまですることのなかったのにと思いました。しかしアメリカでしか体験できない数々の貴重なこともあったのです。わたしの知らないところで、神の導きがあったというのです。

吹上

2008年8月9日土曜日

開拓伝道時代(2)

O教会での伝道が落ち着き、時間の余裕もできたときでした、津山市のT教会から無牧(決った牧師がいない教会)伝道集会の招きを受けました。ご用を重ねるごとに多くの青年たちが集まるようになりました。

しかしその教会は教団が違うことから、問題が起こりました。板ばさみになったわたしは、両方の働きから身を引いて,京都の実家に戻りました。勉強がしたいという理由で..。

ところが、K夫妻(当時1年の計画で郷里伝道のため訪日中)から手紙や、電話で「勉強がしたいのでしたら、2年でよろしいからT教会で奉仕してくだされば、アメリカで学ぶ事が出来るように計画します」とすすめてくださいました。

T教会でも、私がはじめての定住牧師でありました。そこに於ける働きも祝され、楽しい伝道ができ、青年たちがよく集まってくれました。そして約束どおりにアメリカに出発することになるのです。

その後のアメリカでの苦労も考えずに..。

吹上


2008年8月8日金曜日

開拓伝道時代

神学校を卒業して、伝道のために遣わされた教会は、岡山県の北部にあるO町でした。

教会は津山市と鳥取市の中間ぐらにあり、教会堂はなく、I兄姉宅が集会場になっていました。その集会は、毎週ではなく特別な牧師が来られたときに持たれていました。

そのような教会に、牧会経験のない新米者であるわたしが、はじめての定住牧師として遣わされました。都会生活しか知らないものが、農村伝道の、しかも開拓といってよい働きをするのです。

当時はテレビもなく、娯楽のすくない農村でしたので、集会には多くの子供たちが来てくれました。日曜日には礼拝を終えてから、各村々で子供集会を持ちました。またその後大人の集会をすることもありました。

一日に9回のご用をしたことでした。G村では一日の畑仕事を終えて、食事を済ませてから提灯をさげて婦人方が集われました。わたしは集会を終えて帰宅するのですが、雨の日には自転車(自動車でない)がすべり、田んぼのなかに落ちそうになった事もありました。

それも若さのゆえに楽しい開拓伝道でした。救われた若い人々も加えられて、青年会はにぎやかで活気がありました。

吹上

2008年8月7日木曜日

世俗老人の神学生時代

すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

ヘブル12:11

母教会である、京都信愛教会(当時は岡本泰三牧師)より、同年に3名の献身者がありました。

O兄と私は関西聖書神学校(塩屋の神学校とも言われていた)に。K兄は他の神学校に入学しました。数年の社会生活から、神学生としての学びに戻ったわたしには、まさに苦学生でした。

毎日が学びに追われました。今考えてみれば、神学校での4年、そしてアメリカでの4年間の学びは、楽しいというより、学びに追われる苦しい年月でありました。このような中で、中途退学もせず

(やめたいと思ったことは度々あり)今日あることは、ただただ、神のあわれみによるのみです。

神学校は全員寄宿制度であり、上級生(下級生)との同部屋であります。年令も性格も違うので、大変よい訓練でもありました。入室早々に、講堂に導かれ「吹上兄、祈りましょう」と大声で祈られた時は、驚きと恐怖で一杯になつたことを今も覚えています。

学びのほかに、炊事当番があり、風呂のかまどの作業(薪で湯を沸かす)掃除(毎朝冷たい水で)がありました。ぞうきんをとるより、ほうきを先どる競争?もありました。午後の体育?は農作業であり、小麦やサツマイモ作りでした。

多くの収穫があり、食生活のヘルプになりました。沢村校長自らも作業に出ておられました。又各教会に遣わされて、日曜学校や司会、メッセージなどの奉仕活動がありました。このような経験は、その後農村教会の開拓に使わされたわたしには大切な学びであったと感謝したことでした。

吹上

2008年8月6日水曜日

世俗老人の青年時代

あなたの若い日に,造り主を覚えよ

伝道の書12:1

わたしは、若くしてS会社に就職しました。家、仕事、そして教会生活という平凡な日々を過ごしていました。


その当時は娯楽も少なく、教会ではサンデースクールで教えたり,青年会での交わりや奉仕に喜びをもち、集会に出る事が楽しみでした。その青年会から牧師や、牧師夫人になった人も多いです。どこに行くよりも教会に集まることを喜びとした青年たちでした。

路傍伝道に出かけたり、会堂建築の資金を集めたりしたものでした。ボランテア活動として、洪水の後の清掃作業に参加したこともあります。

クリスマスには劇で、イエス様役をしたこともあります。役のなかで、復活されたイエス様が、マリヤに「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです」(ヨハネ20:17)と言われたときの場面を、今も鮮明に覚えています。

吹上

2008年8月5日火曜日

世俗老人の少年時代

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました

ピリピ人への手紙 4:11

わたしの少年時代は今の若い方々には想像もつかない「太平洋戦争」という緊迫のなかに生きたということです。小学生であったので、戦地での苦悩は知りませんが、特攻隊に憧れたものでした。(もう少し戦争が続いていたら、私は戦死をしていたでしょう)

戦争前後の生活は、特に食料難は、今の日本の豊かな食生活では考えられないことです。ほとんど米はなく、さつまいもではなく、そのいもの蔓や葉を食べました。たべられる雑草は野菜代わりに食べました。そのためか雑草のように生き延びることができました。

当時の苦難を思うと、どのような苦しみや、物質不足の中にも生きていくことができるようです。

人間の生命の強さ、生きることへの執着、そして尊さを知ったことでした。

吹上

2008年8月4日月曜日

両親の祈り

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても,私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

詩篇23:4

わたしは三才の時、腸チフスのために死線をさまよいました。

医師からは死の宣告を受けるほどでした。わたしを入院させる費用もなかったというのです。両親は神の癒しを祈りました。

父は住吉山に登り、私のために徹夜の祈りを捧げました。山での祈りを終えて帰宅するとき、知人に出会いました。その方は丁度何かの費用にお使い下さいと御見舞いを、私の家に持っていくところであったのです。そのときから私は薄紙をはぐように、すこしづづ健康を回復していきました。

両親は、わたしが重湯をにっこりと笑いながらおいしそうに食べる姿を見て涙があふれ、この子は神に生かされたのだから、神にささげようと思ったというのです。

それゆえに、わたしが牧師になる召しをうけて神学校に入ることになったと知った時は、とても喜んでくれました。

吹上

2008年8月2日土曜日

世俗老人の幼年時代

私は自分が誕生した時の(ベビーの)写真をみたことはありません。

貴重な写真として残っている一枚だけの写真があります。礼拝後に多くの方々と共に、母のひざに座している1才ぐらいのものです。今の面影はなく、ぽちやっとした丸顔で、めがくるっとして可愛い?幼児に見えます。

わたしの名前は信一ですが、両親の出席していた教会の小川牧師が命名してくださいました。

クリスチャンホ−ムに生まれ、親に、教会の方々に愛され、祈られ、育てられました。牧師は「この子が神様に用いられるものになるように」と頭に手をおいて祈られたというのです。

日曜日の朝になると、妹と一緒に教会学校(サンデースクール)に行きました。教会堂はなく、家の集会でした。その家の前で、タイコをたたき、集会の案内がされていました。今もそのときの歌を覚えています。

  1 まもなくかなたの ながれのそばで
    楽しくあいましょう またともだちと

    (おりかえし)

    神さまのそばの きれいなきれいな川で 

    みんなで集まる日の ああなっかしや

  2 水晶よりすき通る ながれのそばで
    主を賛美しましょう みつかいたちと  (聖歌687)

生まれる前(胎児)から教会に通い、生まれたときから母親に抱かれ、賛美歌を子守うたのように聞きながら、礼拝を守る事が出来ました。そうでないなら、後日信仰に導かれたかどうか分からないからです。

このように育ててくれた両親に心から感謝するものです。

吹上

2008年8月1日金曜日

本との出会い

寝るときに本を読むのが習慣になっています。

昨夜は、こんなことばが心に残りました。

「誰でも、何かで傷つき、落ち込むことがありますよね。、、本を読むということは、エレルギーをもらうということです。本を読むことは、自分の心を育てるということです」

(夢をかなえる心のレッスン」(中井俊巳)


わたしは本を読むことで、どれだけエネルギーを与えられたことか、また自分の心を育て養ってもらったことでしょう。(感謝で一杯です)

一行でも、二行でも心に触れる文章があれば,買ってよかったと思うのです。

わたしが、60年以上も毎日読んでいる本は聖書です。この本だけは、読んでも,読んでも、ますます心がひかれます。ものすごいエネルギーが与えられ、心が養われ、育てられます。

聖書は世俗老人の心の糧、心のごはんです。

吹上


あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です

詩篇119:105