2008年11月29日土曜日

平和と感謝の心を持つ人に

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。、、また感謝の心を持つ人になりなさい。

コロサイ人への手紙3:15


平和な心が持てたならば、また感謝の心で過ごせたら、毎日が豊かな人生となることでしょう。

しかし、平和な心を乱されることの多い日々の生活です。感謝な心を持つよりもつぶやきや、不満を持つことがあります。

平和が心に満ちることは、それはイエス・キリストの平和を心に満たすことです。
どんなときにも平和そのものであられたイエス様を心の中にお迎えすることです。

私は「感謝」と「生きる」ということばが大好きです。でも好きであることと、現実に感謝して生きていることとは別であります。感謝して生きることを日々の生活の中で実行したいと祈り、励んでいます。


「すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5:18)これは神の求めておられることです。

「私は心を尽くして主に感謝します」(詩篇9:1)

「信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」(コロサイ人への手紙2:7)

キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように

エペソ人への手紙3:17


今日もイエス様にある平和と感謝にあふれて生きていきます。


吹上

2008年11月28日金曜日

今年の感謝祭

今年の感謝祭(2008年11月27日)は、アメリカに住むようになった私にとっては49回目になります。当日は大きなターキー(七面鳥)を食べる習慣になっています。(食べない家庭もありますが)

最初の感謝祭のお話は世界的に有名なお話です。

アメリカ合衆国ではリンカーン大統領が、1863年11月の第四木曜日を感謝祭と認め、今日に至っています。

私たちは、四女の家に、三女と五女の家族と共に集まり、ターキー(スモーク)ハム、ローストビーフ、日本食、パンキンパイその他をご馳走になりました。(わたしたちは、もう自分の家でご馳走を作ることから解放されました) 

これからは、クリスマスに向けての残された一ヶ月を過ごすことになります。

吹上

こだわり

おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。

ピリピ人への手紙2:4


自分の正しさ、自分のやり方を通したいときがあります。それにこだわることがあります。そのこだわりが、他の人と合わない時に問題となることが多々あるようです。

自分のこだわりをあくまで断固として通すのではなく、相手の意見や、他人のこだわりにも耳を(心も)傾けることには必要です。

互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう

ヨハネによる福音所3:35


イエス様の心にこだわりたいです。

イエスの弟子であるならば、お互いの間に愛があるのです。

イエスの愛を人々に示すことを優先させたいと願います。

今日も自分のこだわりを優先させてしまうことがないよう祈っていこー!(これはかっぱさんのこだわりのフレーズでした)

吹上

2008年11月27日木曜日

慰めの言葉

わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救いとのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである

コリント人への第二の手紙1:6


M牧師は、長い間病床にあった夫人を看病されました。その病床でひとり聖書を読んでいたときに上のみ言葉が心に留まったというのです。その後、夫人は天に召されなさいました。

夫人が闘病中、また亡くなられてからもそうですが、M師は「ときどき辛い言葉を聞きました」というのです。そのことを次のように書いておられます。

「これは神さまの計画ですから、神さまの栄光が現れますように」とか「万事を働かせて益としてくださるから、頑張ってください」という励ましの言葉をかけて頂いた時、私の心にはいやな思いしか残りませんでした」


この記事を読んで、自分も、慰めのつもりで語ったことばが、人の心を痛めるような「つらいことば」であったのではないかと反省させられています。

主よ、あたなの慰めの言葉をを語るものとなるようにお導き下さい。

吹上

2008年11月26日水曜日

患難の中にある人々を慰める力

神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである

コリントへの第二の手紙1:4


あらゆる患難の中にある人々を慰めることが出来たらどんなにすばらしいことでしょう。

神は、どのような患難の中にいる時でも私を慰めて下さいます。その慰めをもって、他の人を慰めることができるようになるというのです。

患難も知らず、その中での神による慰めを体験することなしに、本当に人を慰めることができるでしょうか。

患難に出会った時、神よりも人の慰めを求めやすいものです。いかなる患難の中に置かれても、神による慰めを求めた時に本当の慰めが与えられ、患難に耐える力が与えられます。

そして、そこから患難の中にある人々を慰める力を頂くことができるようになります。

吹上

2008年11月25日火曜日

富よりも神を第一に

どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます

創世記13:9


アブラムとロトとは長い間、共同の生活をしてきました。

ところがお互いの持ち物がふえることによって、牧者たちとの間に争いが起こるようになりました。そのことで心を痛めたアブラムは、お互いに別れて生活をする方が最善であると思いました。

アブラムの提案によって、ロトに優先権を与えました。「あなたが左に行けばわたしは右に、右に行けばわたしは左に行きます」と言うのです。

アブラムはロトの伯父であります。ロトはアブラムに従ってきた甥です。その関係から見れば、優先権はアブラムにあります。ところが彼はロトにそれを与えるのです。そのことはアブラムが、物を第一に考えていないということでしょう。

富よりも神を第一にしていると思います。また人との平和な生活を考えているのでしょう。ゆえに優先権を喜んで、ロトに譲ることができたのでしょう。

ロトはその優先権を使い「すみずみまでよく潤っていた」(同13:10)土地を選びます。後にそこは大きな問題となる土地です。

吹上

2008年11月24日月曜日

争いの原因

アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いがあった

創世記13:7


牧者たちの争いは「彼らの財産が多かったため」(同13:7)とあります。

持ち物が豊かであることはよいことです。ところがアブラムとロトの持ち物がふえることによって、狭い谷間に住むことが困難になってきました。それが牧者たちとの間に争いが起きるようになりました。

貧しい時には、お互いに助けあったことでしょう。楽しい交わりもあったでしょう。その関係が、持ち物のゆたかさによって破れてしまいました。

財産があることは悪ではありません。ところが財産があるゆえに重荷となることも生じるのではないでしょうか。

物の乏しい時は、お互いに助け合って生活をしていたのに、人と人との間に財産が入ってくることによって、それが壊れることもあるのです。

それは昔も、今も変わらないものであって、世間様でよく見られることであります。


吹上

2008年11月22日土曜日

心の冷静な人

言葉を少なくする者は知識のある者、
心の冷静な人はさとき人である。

箴言17:27



私は生まれつきの無口者、言葉の少ないものです。でも知識のある者ではありません。

子供のころ、お客さんが来られると、押入れの中に身を隠したほどです。(それが牧師になったとは)

私はさとき人ではありません。心の冷静などは、どなたかの言葉ですぐに吹き飛んでしまいます。お湯がわくほどかーっとなります。(こころでなく、頭が)とにかく気が短いという欠点があります。そんな時は祈って心を静めるのです。それがなかったら、今日までどれだけの人に傷を与えてきたことでしょう。

感謝なことに、祈ることによって心の冷静を与えられてきたことです。頭にきた時は、冷静な心が与えられるよう祈りましょう。

主よ、これからも心の冷静な人となれるようお助けください。

吹上

2008年11月21日金曜日

日々、重荷を負って下さる方

ほむべきかな、日々、私たちのために、重荷をになわれる主。

詩篇68:19


今日の日課として読んだみことばです。人生は重荷を負って歩いています。軽い荷もあれば、自分で負いけれないと思うような重荷を負わされることもあるでしょう。

でも、主は、日々(毎日)私のためにその重荷を負って下さるのです。感謝です!

主をほめたたえます。

イエスのことば「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11:28)

制限された重荷ではありません。どんな重荷でも、また、どんな人でも、苦労している者は、わたしのもとにきなさいと招いておられるのです。重荷を下ろしてからきなさいではないのです。重荷を負ったままで、そのままで招きに応じたらよいのです。

今日まで、どれだけの重荷を負ってもらったことでしょう。イエス様、これからも私の重荷を負い続けて下さるをあなたを信じ、頼っていきます。

よろしくお願いします。

吹上

2008年11月20日木曜日

どんな時も、喜んで、感謝して

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。

テサロニケ第一の手紙5:16−18

ここ数日、まるで真夏がやってきたような暑さです。私は暑さにも寒さにも弱いので体が疲れます。

老いてくると、暑い寒いの温度によって大きく左右されるようです。動作がにぶくなるのに、気候の変化には敏感に影響されるようです。私だけでしょうか?

暑くても、寒くても、若い時は飛び廻っていたのにと思うことです。暑い時はじーっと耐え忍び(エアコンがないので)寒い時は動きまわれば、体があたたかくなるでしょう。

言いたいことは、どんな天候でも(雨の時も晴れた時も)暑い寒いの時でも、生きていることを感謝するということです。

かっぱさん風に言うなら、どんな時も、喜んで、感謝して生きていこー..ですね。

吹上

2008年11月19日水曜日

人生はイエスとの出会いで決まる

見よ、兄弟が和合して共におるのは
いかに麗しく楽しいことであろう。

詩篇133:1



神学校を卒業して、渡米するまでの5年間、わたしは二つの教会で奉仕をさせていただきました。一つは大原教会であり、もう一つは津山の高倉教会であります。(どちらも岡山県)

今回の訪日では、その大原教会と、母教会(京都信愛教会)で、礼拝のご用をいたしました。またなつかしい人々との再会が与えられました。

高倉教会は、渡米する前までご用をしたところです。そこにも行きました。N牧師とご令息(牧師)に、津山駅で迎えていただきました。

高倉教会では、すでに皆様が待っていてくださいました。数10年ぶりにに会う方々、Kさんには実に48年ぶりの再会でした。今日まで信仰を持ち続けて来られた方々です。

この高倉教会は、故郷伝道のために、シカゴから訪日されたKご夫妻の働きによって生まれました。このK夫妻との出会いが(大原時代)後に、わたしのアメリカ行きになったのです。

「人生は出会いで決まる」と言われますが、まさにわたしの人生はKご夫妻との出会いによって大きく転換しました。

イエスとの出会いは、もっと大きな転換となるのです。

吹上

2008年11月18日火曜日

かっぱ人からの手紙

ブログが一冊の本になった「かっぱ人(びと)からの手紙」を頂きました。参考になると思い、感謝して読みはじめました。

かっぱさんのブログは、聖書のことばが初めに記され、最後には「行こー」「いこー」となっています。

拝読した後、私はかっぱさんのように面白い文章が書けないなぁ、かっぱさんは若い人なのだろうか?などと考えこんでしまいました。(わたしは古い人間のようです?)

かっぱさん、学ばせていただきます。Mさん、よい本(見本書)をありがとう!

結論: 私はわたしなりに、世俗老人流に書いて行こー!

吹上

2008年11月17日月曜日

死に備えた日々を

友はいずれの時にも愛する

箴言17:17



京都信愛教会で礼拝ご用を終えたあと、わたしが60年前に洗礼を受けた時からの友達が集まってくれました。メール交換をしている人や、日曜学校で教えた生徒たち(もう60才以上になっておられる)も加わってくれました。

信仰の友であり、お互いに苦しい人生を通ったことでしょうが、それを越えて生きてきた明るい人々であります。時間を忘れて、いろいろと語り合うことができました。

わたしよりも若いのに,主人や奥様を天国に送られたかたがたも数人おられました。

死に備えた日々を送らなければならないと痛感したことでした。

吹上

2008年11月15日土曜日

53年前に教えた京都弁のうた

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ

伝道の書12:1


大原教会の礼拝でメッセージを伝える前に二人の姉妹が賛美をしてくださいました。

それは日曜学校で教えた「主われを愛す」の京都弁の賛美でした。教えたことを忘れているわたしでしたが、お二人は覚えていてくださったのです。ここで(岡山県)生まれ故郷の言葉で、賛美を聞くとは驚きでした。

53年と言えば、長い年月です。

その当時は一日中村々で子供たちに聖書の話しをしたことを思い出しました。

その時に播かれたみ言葉が、また賛美が覚えられているのです。また信仰に生きておられるお姿に大きな喜びを覚えました。

幼いときに、みことばを教えられることは大切です。

しかしながら、子供たちが集まらないというのが日本の教会の現状のようです。せめてクリスチャンの子供たちが、信仰を受け継いでほしと祈るものです。

吹上

2008年11月14日金曜日

長いーことかかったよ

主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます

使徒行伝16:31


私は53年前に、大原教会(岡山県)で伝道を開始しました。

その当時からFさんは信仰を求めて、家庭集会に忠実に出席されていました。そして今日まで、その信仰を持ち続け、輝いたお顔をして礼拝に来られ、わたしのメッセージに耳を傾けて下さいました。ご夫人も信仰を持たれ、今はお二人で主に仕え、よい働きをしておられます。

「奥様も救われてよかったね」という、わたしのことばに「先生、家内が救われるために長いーことかかったよ」と答えられました。それは長いー奥様の救いのために祈り続けた証しであります。

だれでも家族の救いを願うことは切なるものであります。そのための最大の武器は、祈りであり、自らが救いの喜びに生きていることです。

時間がかかることもあるでしょう。最後まで祈り続けることです。死後にその祈りが答えられて、家族が救われたと言うこともあるのです。

日夜祈ることです。祈りを通して、神は働いて下さるのです。

わたしの救われる背後に、母の涙の祈りがありました。同じく父の祈りがありました。それが私の両親への一番の感謝です。

吹上 

2008年11月13日木曜日

過ぎ去るものと永遠

すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世からでたものである。世と世の欲はとは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる

ヨハネ第一の手紙2:16−17


肉の欲は、一時的な快楽をもたらしますが、決して満足することはありません。

目の欲は、次々と新しいものを求め、それを欲しがりますが、これも永遠の満足と喜びをもたらすものではありません。

持ち物の誇り(暮らし向きの自慢)これも、人に賞賛されたとしても、すぐに消え行くむなしいものです。

世にあるもの、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは過ぎ去ります。

世俗的な欲望や人の賞賛や、持ち物よりも、神のみこころに生きることを願う平凡な世俗老人となった今、過ぎ去らないもの、永遠なる神の御旨を慕いも求めます。


吹上

2008年11月12日水曜日

必ず到着するのです

目標を目ざして走り

ピリピ人への手紙3:14

今回の訪日の旅は、行きも帰りも、SDとLA,そしてLAとSDとの間の交通に問題が生じました。

行きは濃霧のために飛行機のキャンセル、帰りは機内で待っているのにパイロットが姿を見せないというのです。なぜパイロットが来ないかという説明はありませんでした。

このブログを読まれた日本のAさんがメールを下さいました。

「私たちの人生のゴールに行き着くまでにも、順調な道のりの中に、思いがけず困難や試練もありますが、無事に目的の地(国)にたどり着くことができることは感謝なことです」

人生は旅です。旅には目的地があります。(ぶらっと目的地なしに出るひともありますが)天国という神の国が私の目的地です。そこに行き着くまで、様々な苦労や問題があることでしょう。

でもしっかりと目的地に目を向けて歩んでいるなら、必ず到着するのです。

吹上

2008年11月10日月曜日

貴重な柿の実(2)

人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ

ルカによる福音書6:31

貴重な柿の実のことを書きました。
訪日前に、鳥にたべられないために銀紙で包んだことを。
それが良かったようです。鳥はぎらぎら光るものを嫌うようです。
柿のことを案じてくださった方々がありました。ご安心ください!
見事な赤い実が、鳥に食べられず無傷です。
柿の好きな家内は喜んでいます。
ところが、その貴重な柿を食べないで、
知人(アメリカ人)に送ってあげると言うのです。
なんと心のやさしい奥様でしょう。

ご主人様は幸いな人ですね(笑)

吹上

2008年11月9日日曜日

無事に帰りました。

皆様のお祈りを感謝します。

元気に帰ってきました。訪日の当日飛行機に乗り遅れたことを書きました。(天候と事故のため)こちらに戻った日も信じられないことになりました。

7日(金)午前9時前にLA空港に着陸。ところが午後2時35分発サンデイェゴ行きの飛行機が遅れ、やっと機内に入りほっとしていると、パイロットが遅れているのでしばらく待ってくださいというのです。(相当な遅れになっていました)それでも乗客は笑っていました。でもこの飛行機は飛ばないので外に出るようにとの事。乗客の怒りは頂点に達しました。(私たちは疲れて沈黙ですが)外に出た人々はけんか腰で叫んでいました。

結論は、明日の飛行機に乗るか、シャトルバスで(7人乗りの小型車)SDに行くかと言うのです。私たちはバスにゆられて、のろのろ運転(混雑時間)のバスで空港行きを選びました。

大阪空港からLA空港まで8時間40分の飛行時間、LA着からSDの空港まで12時間でした。信じられないことです。O師に迎えられて9時ごろ帰宅しました。

人生何が起こるか分かりません。LAとSDの遠いこと?お疲れさまでした。でも飛行機が落ちないで帰れたことを感謝しています。9日の礼拝も守れました。

生きていることは楽しいです。めったにないようなことも体験することができるからです。

吹上

2008年11月8日土曜日

日本で感じていること

東京及び大阪駅には、通勤する人々、通学する人々であふれていること。
車中で身動きできないこと。乗り降りの大変なこと(降りますと叫んでいます)
混雑する時間はさけることです。切符を買うことに苦労します。
またどこから乗るのか、どこの出口がよいのかもわからず困ります。人に尋ね,尋ねのお上りさんです。

食べる店の多いこと。これだけあって商売ができることは、多くの人々が外食をされるということでしょうか。
わたしたちも、安くて、おいしい店で食事を楽しんでいます。
家内は少食ですから、残飯整理をしています。(訪日中は体重のことは忘れることにしています)

男性の多くは背広に、ネクタイ姿が多いです。女性の服装は目を楽しませてくれます。(そっとさりげなく見ています)

電車の中で席をゆずってくださいます。(わたしたちがが老人に見えるのでしょか?)
道順を聞いても親切に教えてくださいます。心が温かくなります。(天候も温かいです)

交通の便利なこと。タクシーの多いこと。道の狭いこと。自転車がよく通りこわいです。

2008年11月7日金曜日

主ともにいませば

バニャンは獄中から、次のように書いています。

「わたしは自分の生涯の中で、今ほど神のみ言葉に圧倒されたことはない。聖書の言葉は、以前には感じなかったようにこの場所、この状態ーベドフォードの牢獄ーの中で、わたしに光を与えている。イエスが今ほど、現実の存在となってわたしに迫ってくることはかってなかった。ここでわたしは主にお会いし、そのご臨在に触れているのだ」


苦しみや、試練、悲しみの尽きないこの世の生活です。しかし、その中で、聖書のことばが、今までになく新鮮に、力づよく、慰めとなって心にひびいてくる。私もそのような経験をしたことがあります。

好きな聖歌に、「主ともにいませば獄屋も宮殿の心地する」とあります。どこに住むかというよりも、主と共に生きることが大切です。

今住んでいるところ、身を置いているところも、主はいつも共にいて下さるのです。

吹上

2008年11月6日木曜日

帰れや、帰れや

 イエスはなれを呼びたもう いともの静かに  
 「愛の神のもとより  などて去りし」と
 「帰れや 帰れや 帰れや」 と主は今呼びたもう 

 聖歌404番

愛なる神のもとから去っていった魂が、もう一度戻ってくるとき、天に大きな喜びがあります。また本人も、神の大きな愛に包まれ、心のやすきを得、喜びを回復することができます。

神に造られた人間は、その創造者なる神のもとに立ち帰ってこそ、真の平安が与えられます。

わたしは朝ごとに、神との交わりの中で、「生かされている」という喜びと感謝があふれてきます。生かしてくださる神と共に、一日をはじめるとき、その一日は恵まれ、祝福された一日となります。たとえ、そうでなくとも(試練や悲しみに出会います)神のみ手の中で起こったことであれば、(自分の落ち度もありますが)必ず最善に導かれるという平安があります。

神のもとを離れた人々を思うとき、心は(胸)痛みます。愛の神の心は、もっともっと痛んでいるのです。

「帰れや 帰れや」と、愛なる神は、いともの静かに語っておられます。その声が聞こえませんか?

神のもとに帰ってください。神は待っておられます。

吹上

2008年11月5日水曜日

イエス様のお姿

ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすこともせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」

ペテロ第一の手紙2:23

この聖書のお言葉は私の主、イエス様のお姿です。

イエス様はおびやかしたり、文句をいうこともなく十字架への道を歩まれました。その忍耐に教えられます。

ののしられたら、ののしりかえしたい衝動にかられるわたしです。すぐにカット、血が頭にのぼるほうです。

若い時は口より手のほうが早かった私ですが、年令とともに、すこしはこの傾向が減少しているようです。

でもある特定の人に何か注意されると大きな戦いが必要な時があります。そのような時は「主よ、助けてください。冷静なこころにしてください」と祈ります。

黙って、主イエス様の足跡をたどる者になりたいと願います。

主イエスが十字架につけるものたちのために、また、私のために許しを祈られたお姿に学びたいと祈ります。

吹上

2008年11月4日火曜日

祈っています

わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った

ルカによる福音書22:32

手紙の終わりに「祈っています」と書くことが多いです。その時、わたしは手を休めて、その人のために短く祈ります。

自分のことを考えても、今日までどれだけ多くの人々の執り成しの祈りに支えられてきたことでしょうか。今日もどこかで、だれかが祈っていて下さることを心から感謝するものです。

人はそんなに強いものではありません。身体に疲れを覚えることがあります。多くの試練によって、心が(身体も)弱ることもあります。人につまずき、神に背を向けてしまいます。そんなわたしを知って、神に祈ってくださる方があるゆえに、力を与えられ、試みに勝ち、信仰の道に戻ることができるのです。

あなたも祈られていることを忘れないでください。そして、人のために祈ることができたら何とすばらしいことでしょう。

吹上

2008年11月3日月曜日

永遠のいのちと天国

人は見えるものに目を注ぎやすいのですが、それは一時的であります。

この世のものは、いつかは変わるので、永遠ではありません。それに目を注ぎ、そのことのためにだけ生きているならば、いつかは失望し、不安におちいります。

世俗老人は目を転じて見えないが、永遠につづくものにしっかりと注目して生きています。

キリストの復活のいのちが与えられて、また、その復活の力によって生かされている私には、永遠のいのちと天国が保証されているのですから。

吹上


 ひとりの友がある。
 深い同情を寄せ、悲しみの日に
 流す涙をぬぐう友。
 彼は愛の人、その愛はいつまでも 
 変わることがなく、
 私たちのすべてを祝福し
 明るく、楽しいものにする。 (バーランス)

2008年11月2日日曜日

私は落胆しないで生きています

人はだれでも、やがて手や足が震えるようになり、背骨は曲がり,歯は抜け、視力が衰えて来、耳は遠くなり、よく聞こえず朝早く目が覚め、声はしわがれてしまう。また、息切れがして、坂道を登るのが大儀になり、足の自由がきかず、立往生し、頭髪は白くなり、のろのろと歩き、、、死に向かって行く。こうして、ついにいのちの終わる日がやって来る。

現代訳伝道の書12:3−6

どんなに若いつもりで生きていても、年とともに外見は変わっていきます。

現在の私自身の外なる人を見れば、まさにその通りです。でも、私は落胆しないで生きています。現実はそうであっても、内なる人は日ごとに新しくされているからです。

聖書を読み、みことばに生かされ、祈り、神との交わりに生きることによってであります。

人生には多くの患難や苦難に出会います。しかし、それは束の間であり、わたしたちが受ける「永遠の栄光」に比べる耐えうる事柄だと信じてます。

神が与えて下さる、あふれるばかりの重い栄光を目指して、しばらくの、軽い患難に耐え、落胆しないで生きましょう。

吹上

2008年11月1日土曜日

貴重な柿の実

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。

ペテロ第一の手紙5:8−9

裏庭に一本の柿の木があります。昨年は100個以上の実を結び、重さで折れた枝もありました。ところが、今年は信じられないほど少なくて、ただの8個です。(もう2個は食べました。傷がついて赤くなったので)

柿の実の好きな家内には、実に貴重な実であります。その実が少し色づいてきたと喜んでいたら、鳥がきて食べ始めました。そこで昨日、銀紙でその実を包みました。(紙のほうがよいのでしょうか?)これで訪日から帰ってきたら、甘い柿の実が食べられると楽しみにしています。

おいしいものは、鳥も虫も知っていて食べに来るのです。この敵?との戦いです。

人生にも、いろいろな戦いがあります。敵の攻撃に会います。病に倒れることもあります。誘惑があります。試練という攻撃を受けます。

目をさまして祈っていること、健康管理に気をつけること。大切な体と心を魂を守らなければなりません。

弱い私は、神のみ手のなかに守られてこそ、安全であることができます。

あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう

ペテロ第一の手紙5:10

主よ、わたしたちをいやし、強め、力づけて、不動のものにして下さい。

吹上