2008年9月30日火曜日

第20回ラバ温泉修養会(2)

修養会のご用を終えて、感謝と喜びにあふれて帰宅しました。皆様の背後での祈りを心から感謝します。

パウロ先生は「わたしのためにも祈ってほしい。、、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい」(エペソ人への手紙6:19−20)と書いています。

大先生が、そうであれば、わたしのような小さなものは、もっともっと祈っていただかないとご用ができません。

「修養会のご用のために祈っています」というメールは、大きな力でありました。

朝夕のメッセージ、お互いの交わりと祈りの時、この世の忙しい生活を忘れての祝福のときでした。また温泉にも入り、体にも休養が与えられ、霊肉ともに新しくされました。

お互いに、再会を約束し、主に力づけられ、それぞれの生活の場に遣わされたことでした。

一年をかけて祈り、準備をしてくださったH師ご夫妻、教会員の皆様に心から感謝します。

吹上

2008年9月29日月曜日

謝らないアメリカ人すぐ謝る日本人

オレンジ郡キリスト教会でご用をさせて頂いた時に集会後、高木哲也氏より2冊の本をいただきました。

題名は、「謝らないアメリカ人すぐ謝る日本人」(草思社刊)「日本企業よ自分を貫け」であります。

著者である高木氏のサイン入りで「恵存」と書かれていました。「どうかお手元にお置きください」という意を表す語であります。

すばらしい本を手元に置くことが出来たと喜びながら読ませて頂いてます。

「謝らないアメリカ人 すぐ謝る日本人」の第1部には、この項目のほかに「みんなが持っているから」「だれも持っていないから」「本物のサービスと偽物のサービス」
「自己主とエゴイズムはちがう」となっています。第2部「教育」第3部「家庭」第4部「ビジネス」第5部「社会と経済」であります。

生活からビジネスまで、日米はこれだけ違うという比較が書かれています。

わたしも48年という長いアメリカ生活の中で、いろいろな違いを体験しましたが、この本を読みながら、「その通り、そうです」と同調いたしました。

くわしい説明はしませんが、アメリカに住む人には読んでほしい本です。教えられることの多い本でありました。

吹上

2008年9月27日土曜日

生きる意味|ポール・トゥルニエ

「生きる意味」の著者ポール・トゥルニエ博士が、自分のことを「あらゆるものに興味を持ち、関心を寄せ、好奇心を持っているおじいさん」と言っておられます。

「おじいさん」という表現に親近感を感じます。

トゥルニエ博士は、実際に台所で料理を作ること、裁縫をすること、庭いじりや畑仕事、哲学や神学、彫刻をしたり、鋳造、木工にも心がひかれ、それを楽しんでおられます。

トウルニエ博士のことを知って、私もまだまだ多くのことに関心を寄せて、やってみたいと心を燃やされました。

イエス様はマルタに対し、「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカによる福音書10:42)と言われました。

不器用な私が、あれも、これもと試みるよりも、やっぱり一つのことに集中すべきかと考えてしまいます。迷っているうちに、何もせずに終わってしまうのではないでしょうか。


私の一番の楽しみは読書です。今も、山のように本を積み重ねています。それを見ながら、長生きしないと読みきれないが、、。どれを読もうかと迷っています。

私にも本が読めなくなる病床生活の日がくることでしょう。だから一日、一日を大切に生きたいです。

どんなに考えても残されている日は少ないのですから。


吹上

2008年9月26日金曜日

Hちゃんありがとう。

何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい

マタイによる福音書7:12


礼拝のときに、三人の方の合唱がありました。

その一人は男性Mさんでした。賛美が終わると、その男性に1才半の女の子がパチパチと拍手をしたので大笑いの渦が起こりました。(普通、拍手はありません)

集会後に、お母さんに、どういうことかと聞くと、自分が歌ったときに父(母も)親が「上手、上手」と手をたたくので、父が歌ったのでパチパチとやったというのです。

おさなごはすごいなぁーと感嘆したことでした。大のおとなに笑いとほほえみ与えるのですから..

おさなごは、自分にしてほしいとは思ってはいないが、してもらったことをほかの人(父)にもそのようにしたということです。

幼いこどもは、大人のすることを真似て育っていくようです。大人は(親)よい模範をみせなければということです。欠けの多いわたしは反省させられたひとときでした。

Hちゃんありがとう。また笑いをくださいね。

吹上

2008年9月25日木曜日

わたしが弱い時にこそ

わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである

コリント人への第二の手紙12:10

私には、弱さがあり、そのために悩み、苦しみ、失望することがあります。この弱さがなかったらどんなによいだろうと思うこともあります。

しかし弱い時にこそ、イエス・キリストの力が宿ることによって、強くされ、私に生きる勇気が与えられます。

身体になんらかのハンディを持っている人が、それを苦にせず(苦しみ、悩まれたこともあったでしょうが)前向きに生きておられる姿に感動し、また力と励ましを頂きます。

イ・ヒアさんは大きな障害をもって生まれました。でもピアノコンサートを行っておられます。

下は私の大好きなイ・ヒアさんの詩です。


10本の指がなくても、悲しくなったりしない。
残っている4本の指に感謝する時,私の心に光をくださった神様が、
10本の指があったら持つことの出来ない喜びを私に届けてくださつた。

2本の脚がなくても、恨んだりしない。
わずかに残ったこのももに 靴を履いて、
主に向かって踊りを踊る時に、
希望を語れるようにしてくださった。

外なる人は古くなるけれど、
内なる人は日ごと新しくなるのだから、
外見の理由によって、泣いたりしなで、
神様は、そんな外見の理由で泣いたり、笑ったりしている人たちに
伝える主の言葉を、私に託してくださったのです。(市ノ渡典子訳)

2008年9月24日水曜日

痛いときは「痛い」と大声で叫んでください。

1カ月以上も、関節炎からくる首の痛みで、家内は戦いの日々を過ごしています。

針治療やカイロプラクターに通ったり、その他の治療を試みていますが、回復のきざしはみえません。

夫として、妻が痛みに耐えている姿を見るのは本当に辛いことです。痛みのないわたしには、心から同情することもできない心境です。

何かよい治療はないのでしょうか?ペインマネージメントにも通い相談をしています。

「同病相憐む」ということばがあります。同じような痛みや苦しみの中を通っておられる人が,ことばをかけてくだされば慰められるのではないでしょうか。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざもあります。自分も車の事故で、肉体の痛みを経験はしたものの、今ではその痛みも苦しみも忘れています。

今、苦しむ人、痛みのある人のことばが一番慰め、はげましとなるのではないでしょうか。
わたしと同じ心の病の苦しみを通った人と語り合ったとき、心が通じ合い、「そうだ」「そうです」と大声で慰め合ったことがありました。

今、痛みの中を通っておられる方々の上に、癒しと痛みからの解放を祈り願います。

痛いときは「痛い」と大声で叫んでください。

吹上

2008年9月23日火曜日

第20回ラバ温泉修養会(ユタ州)

老人は過去に目を向けて「昔はよかったが、今は..」と言って生きるのでしょうか。

たしかに、私の体力は弱りすぐに疲れます。記憶力は衰え、人の名前も忘れることが多いです。でも、しかたがないとあきらめるのではなく、すこしでも前進したい、前向きに生きたいと願っています。

当年77歳の私はこのブログを書くのも大変なときがあります。

何でも書けばよいというのではないのです。あれも、これもと考えるのですが、よい記事がうかばずというところです。

肉体の成長はなくとも、すこしでも霊的に成長することができればと励んでいます。

今年も、第20回ラバ温泉修養会(ユタ州)に招かれてご用をします。(9月24日−28日)若い先生方とご一緒のご用です。わたしには若さの力をいただくときとなることでしょう。感謝であります。

早天祈祷会、午前と夜の集会があって、午後には有名な温泉につかり、肉体をいやす時間があります。(自由参加ですが)婦人会、二世有志による日本食のもてなし、霊肉ともに恵みをうける修養会です。心も身も新たにされます。しかも費用もホテルに3泊と食事つきで75−120ドルです。来年は参加されませんか。

私の健康が守られ,ご用を通して、神があがめられる集会となるようにお祈りくだされば感謝であります。参加者全員の健康も守られ、神の豊かな祝福をいただく修養会であることをお祈りください。老いても、前向きに前進します。

では、ラバ温泉修養会(ユタ州)に行って参ります。

吹上

あなたは愛されているのです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している

イザヤ書3:4

タフな人は生きていけるでしょう。私はタフどころか、とても気の弱いものですが、今日まで生きてきました。

また、頑固で、優しさに欠け、生きていく資格のないような者ですが、今も生かされています。

自分で生きようとしないから、生かされているのでしょう。また何か、この地上ですることがあるので生かされているのでしょう。

この世での仕事が全部終ったら、神様はすぐにでも天に召してくださることでしょう。

それまではタフでなくとも、生きる資格がないと思われようとも生きていきたい、生かされていたいと願っています。

どんなに苦しいことがあっても、意味のない苦しみはないと信じています。どんな人にも生きていく資格があり、どんな人も神に愛されているのです。生きる資格があるのです。

あなたは愛されているのです。私も愛されているのです。

その愛のただ中に生きていけばよいのではないでしょうか。人の目にどう見えても、あなたは高価で尊いと言ってくださる神様がおられるのです。

吹上

2008年9月22日月曜日

Mさんのためお祈りくださったことを感謝します

M子さんのためお祈りくださったことを感謝します。

今朝早く、M子さんの友人から電話があり、亡くなられたとのことでした。今日は終日、施設にいったり、葬儀社に行ったりと忙しくしていました。

皆様、祈りを感謝します。

吹上

心のごはん

皆様、お元気ですか。

娘や孫たちが帰り、また二人だけの静かな生活に戻りました。

家内が関節炎から首の痛みで大変です。なにもしない、痛くて出来ない状態です。娘たちの事つくりは私の仕事でした。でも楽しくやりました。少し腕があがりました。

アメリカや日本のように物質が豊かな国には飢饉(ききん)はないでしょう。しかし、人生のききん、肉体の飢えではなく、心の病んだ人、心の飢饉に悩んでいる人々は多いようです。

わたしの心が病んでいたとき、そのような問題に触れている本を読みあさっていた時期がありました。


「心の傷」を見つめて(上村順子)
悲しみの精神史(山折哲雄)
誰も私をわかってくれない(牧野真理子)
心の病いと社会復帰(蜂矢英彦)
心の壊れた子供たち、絶望がやがて癒されるまで、
なぜ「いい人」は心を病むのか(町沢静夫)
「うつ」をやめれば、楽になる(フランク:ミナース、ポールメイヤー)
うつ病は必ず治る(河野友信)
心がやすらぐ本(ルイーズ:ヘイ)
心を病むってどういうこと(古川奈都子)
お母さん、心の声が聞こえていますか(山路鎮子)

これらの本は助けになります。しかし、わたしの心が病んでいたときに、真の慰めと生きる勇気を与えてくれた本は聖書でした。

やっぱりそうくるのかと言わないでください。難しい、分からない、そのように頭から考えないで、とにかく読んでくだみてさい。きっと慰められ、力づけられるときがきます。

聖書は心のごはんです。毎日食べるように読んでください。あなたの心を豊かに養ってくれます。

吹上

2008年9月21日日曜日

今日が最後の日であるかのように

あなたの神に会う備えをせよ

アモス書4:12

昨日もM子さんをお見舞いしました。彼女のルームに入ると、アイスクリームを食べさせてもらっているところでした。

看護の方が「しばらくいるのですか。それなら食べさせてほしい」と言って、他の人のお世話をするために出て行かれました。

一昨日コカコーラを飲んでおられたので、「コカコーラをのみますか」と問うと「うーん」と言って、口を開かれるのです。

ゆっくりと時間をかけて飲んでもらいましたが、一缶ほとんど飲まれたのには驚きでした。

食欲もなく、ランチも食べられなかったということでした。それゆえにコカコーラをゴクンと喉をならしながら多くを飲んでくださったのです。

今、主に会う備えをされているM子さん..。私も遅かれ早かれ、何時かは必ず地上での最後を迎えます。今日が最後の日であるかのように、毎日を大切に生きなければならないと思っている今日この頃です。

吹上

2008年9月20日土曜日

14年前の9月1日も月曜日

14年前の9月1日も月曜日であり、その日は引退生活の第一日でありました。

その14年間には、いろいろな体験をしましたが、死の谷を通ったことが2度ありました。一回目は自動車にはねられた事故。二回目は日本で手術を受け、帰米後に同じ手術を受けて危篤状態になったこと。感謝なことに生きることをゆるされて、今も元気に老後を暮らしています。

新しい牧師の就任が決まるまで、2000年の9月から2001年の12月まで、再びサンディデゴ教会で牧師をすることになりました。

以前の12年間の奉仕とともに、このときの働きも楽しい日々でした。教会員の皆様の尊い祈りと奉仕によって支えられたご用であったことを心から感謝するものです。

1969年からサンディエゴ教会での働きを始めて、他教会での牧会を加えての39年の間に多くの方々が天に召されました。

懐かしい人々の顔を今もはっきりと思い出すことができます。お世話になった懐かしい人々と再会する日も近いことでありましょう。

吹上

2008年9月19日金曜日

教会には神の慰めが

引退後の最初の日曜日にサンゲーブル教会での礼拝ご用が与えられました。

午前6時半に家を出て、礼拝では「神の慰めに生きる」と題して第二コリントの手紙1:3−7から御言葉を語りました。

定住牧師のいない教会には神の慰めが必要です..。

メッセージの後、司会者は泣きながら、神は私たちを決して見捨ててはおられないと語られました。

同日、礼拝後の集会では、愛の章第一コリントの手紙13章より、愛の必要性と愛の特徴について語りました。

吹上

2008年9月18日木曜日

忘れたころに車の接触事故

長い間、車の衝突という事故から守られてきました。ところが、昨夜9時15分、祈祷会を終えて帰るときに、Mさんの車に当ててしまいました。

教会の駐車場で車をバックさせていたときに、カックンと軽い衝撃を感じ、車を止めて降りてみると、わたしと同車種で、新車のMさんの車に大きな窪みができていました。

明らかにわたしのミスでした。Mさんを探しに教会に戻り「すみません。あなたの車に当てて、傷をつけてしまいました」と謝りました。

人間の思い違いは恐ろしいものですね。後ろに車が止まっているということを思ってもいなかったのです。(パーキング場の電気も切れていたので、暗かったのですが)

修理のための手続きや、その他のことで貴重な時間を使わせることになってしまい、Mさんに対して申し訳ない心で一杯であります。

Mさんが帰宅されたころに電話をかけると無事に帰宅されたということで安心したことでした。

ご主人様にもお詫びのことばをかけました。「ああ問題はありませんよ、心配なく」と明るい声で返事をくださいました。また、ほっとした瞬間でした。

家内は「人身事故でなくて、、」と慰めてくれました。

このような一大事があった日は、気になって眠れないのがわたしの性格ですが、平安があったのでしょうか、あれこれと考えているうちに眠りにつきました。

人生いつ、どこで、何が起こるか分かりませんね。注意に注意をしても、事故がおきてしまうことがあります。

皆様、夜の駐車場では、よくよく後ろを見て、ゆっくりバックをしてください。

Mさん本当にごめんなさい。

吹上

ダビデの祈り

神はあなたがたを顧みていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい

第一ペテロの手紙5:7

ダビデの祈りには沢山の事を教えられます。

ダビデは一切のことを、静かに神にゆだねました。

人々の不親切なことばを神にゆだね、それから神により頼もうという強い意志を働かせ、どんなことがあっても恐れないと覚悟を決めました。

恐れが押し寄せてきたら、心をさらけ出して再び祈りました。

一部だけをゆだねて、いっさいを神にゆだねていないわが身を反省させられます。

吹上

2008年9月17日水曜日

試練の中にも

神が私を多くの試練の中に導かれるように思える時があります。

それは神が、今までの私の歩みに信頼しておられ、これから通されようとする火のような試練の中でも、私が神に栄光を帰することを導いておられるしるしです。

だから、恐れるのはやめる事にいたしましょう。

私はつかの間の苦しみから救いだされ、神ご自身とのより近い交わりへと引き寄せられるでしょう。

神よ、私を静思することに成熟した子として下さい。試練のない引退生活は望めないでしょう。試練の中にも、あなたの御顔を仰ぎみる信仰を与えて下さい。

嗚呼!主よ、すべての栄光をにあなたに帰することができますように..

吹上

2008年9月16日火曜日

試練は、神の愛と信頼へのしるし

静まって、わたしこそ神であることを知れ

詩篇46:10

試練は、神の愛と信頼へのしるしです。

私が堅く立ち、静かに神を待ち望むことを、神はどれほど喜んでくださるでしょうか。神が試練のない歩みを許されるとしたら、私はすばらしい霊的経験に導かれることがないでしょう。

多くの試練や苦しみは、神が私を信頼していて下さるしるしです。神は私が、その中で耐えることができると信じておられるのです。

神が守っておられるという目に見えるしるしがなく、敵にばかり良くしておられるように見える時にも、私が神に対して真実であり続けると信じておられるのです。

試練の中で私は、あわてず、静かに神を待ち望み、そして祈ります。

主に信頼した落ち着いた心を今日も与えたまえ、と..

吹上

2008年9月15日月曜日

主と共に歩む毎日でありますように

人の歩みは主によって定められる。

詩篇37:23

1)毎日は主によって定められているという歩みを間違いなく歩みたい。

2)自分の道を歩んではならない。

3)神がわたしの将来を一歩一歩共に歩んで下さり、導いて下さる事を祈る。

引退して以来、第二の人生と言うべきか、あるいは、第三の人生と言えばよいのでしょうか?日々、上の3つの事を肝に命じて生活しています。

ジョージ:ミューラは「人の歩みだけではなく、人が止まるところも主によって定められる」と言っています。

主はイスラエルの民が雲と火の柱によって導かれました。そして行くべき時、止まるべき時が示された。止まる時も進む時も、主の導きがありました。

進むべきときに止まったり、止まるべきときに進むことがなように、確かな主の導きを求めて祈りのうちに、新しい出発をして行きたいと願った引退生活..。

主は、わたしの引退後の生活をどのように導いて下さるのだろうか。

様々な思いはありますが、神より先に進むことのないように、神より遅れて従うことのない、主と共に歩む毎日でありますように..。


吹上

2008年9月13日土曜日

なにごとも

モーゼスさんは、78才になると、指先がこわばって刺繍針がもてなくなりました。

そこで絵筆をとり始め、農場生活の情景を細部まで正確に描き出しました。そして美術史に残る画家となりました。100才のときに「クリスマスの前の晩」の挿絵を完成しました。

世俗平凡老人のわたしには絵を描く才能などはなく、平凡な引退生活になりました。でも毎日が楽しく、読んだり、書いたり、自由気ままな生活をしています。

「サンディエゴ便り」は、今も書き続けています。与えられた多くの時間を大切に、有意義に使いたいと思います。気分転換のため庭仕事にも励んでいます。

といっても一時間もすれば休息がいる体になりました。無理をせず、あせらず、マイペースでやっています。

なにごとも。

吹上

2008年9月12日金曜日

わたしの引退生活

わたし自身の引退生活は、1997年9月からでした。

1 本をよむ時間が与えられたこと

2 書く時間が多く与えられたこと

3 庭での作業、家の修理ができること

4 料理やパン作りができる

5 趣味の時間ができたこと(楽しみとしてする事柄)

上は、わたしが引退生活をして感じた事柄ですが、時間に追われない、今までよりも多くの自分の時間が与えらました。

この他に、責任、プレッシャーからの解放を感じました。

今までの牧師としてのご用から完全に解放されたというのではありません。今も礼拝のご用に行くことがあります。しかし牧会という責任のある務めからの解放はあります。

どの職業にも、誰でも重い責任はあるのですが..。これは牧師をやった人でないと分からない事柄であるかと思います。

責任があることは、そのことによって、祈り、へりくだらなければならないこともありますので、恵みでもあります。

クリスチャンの皆様、あなたの教会の牧師の働きのために祈り、その働きをサポートし、奉仕に参加してください。には喜びもあります。

吹上

2008年9月11日木曜日

めずらしいこと

昨夜おそく帰宅しました。

何か久しぶりにブログに向かっているようです。ブログもだんだんと説教だけになってきたような気がします。よいのでしょうか?

5人の娘たちが揃うことは、結婚式(もう皆終わりました)か、わたしの葬儀ではないかと思っていました。ところがめずらしくも5女の誕生日に、その5人全員が集まってお祝いする事ができて、わたしたちもその仲間入りをしました。お友達も参加です。

よく食べ、しゃべり、よく笑う娘たち(友達も)の姿を見ながら、ここまで無事に育ってくれた、信仰を持ってくれたと感謝したことでした。孫たちも笑ったり,泣いたり(自分が誕生日のうたのピアノを弾きたいと)とにぎやかなことでした。

たったひとりで、48年前にアメリカの地を踏んだわたしでしたが、このような大家族?になったのです。

今日あるは、神の恵みであると神を賛美したことでした。今度ファミリー全員で集まるのは何時のことでしょうか?

毎日彼女たちの家族のために祈る私たちです。

吹上

2008年9月10日水曜日

ヨシュアについて

その従者なる若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋を離れなかった。

出エジプト記3:11

ヨシュアについて聖書はこう記しています。

彼の特徴を一言で表すならば「従者」であります。神が用いられる器は、どんな時にも従順
であることです。また彼は幕屋即ち神の臨在を愛する、礼拝を愛する人でした。

モーセの後継者として選ばれたヨシュアは、不安、恐れ、弱さがあったことでしょう。それゆえに神は「強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない」と幾度も語られました。

「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼にいわれた「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている」と。(ヨシュア記13:1)

老いたヨシュアに神は休息しなさいとは言われませんでした。どんなに年を重ねても仕事があるのです。

体が不自由であっても、祈りという大切なわざが残されているのです。

吹上

2008年9月9日火曜日

勝利の秘訣は祈りにあり

エジプトで奴隷となって、悩み、苦しんでいたイスラエルの民を、救い出す指導者として選ばれたのはモーセでありました。

このモーセについてこう書かれています。

「モーセのような預言者はもう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された」(申命記34:10)

この偉大なる指導者モーセが死に、その後継者に選ばれたのはヨシュアであります。

マックレイは「一民族、また一教会の歴史において指導者が交代する時ほど重要な時はない。多くの人がこの時に失敗し、その働きの結果は消滅する」と言っておられます。

モーセの死は重大な危機にありましたが、後継者となったヨシュアによって、イスラエルの民は、乳と蜜の流れる約束の地カナン入国という偉業を成し遂げるのです。神の働き人は召されても、その働きは継続されて行くのです。

このヨシュアは、アマレクとの戦いの時には、モーセによって司令官として選ばれ、勇敢に戦い勝利を得ています。その背後にはモーセが手をあげて祈りをささげていました。(出エジプト記17:8−13)

教会の戦いの勝利の秘訣は祈りにあります。個人の信仰生活の勝利も同じように祈りにあります。

吹上

2008年9月8日月曜日

神の臨在に生きる(3)

神は「私自身がいっしょに行って、、」と、モーセに約束されました。

エジプトを脱出したイスラエルの民を、神が与えると約束された、乳と蜜の流れるカナンの地に導いて行くことは大変なことでありました。

荒野の旅の途中で、いろいろな問題が起こりました。彼らは飢え,渇き、疑い、つぶやき、不信仰になりました。指導者モーセを責め、苦しめました。

そのようなモーセを、神は励まし、支え「わたしはあなたとともにいる」と約束されたように、いつも、どんなときにも共にいて、助けられました。

はじめは、御使いを遣わすと言われましたが、モーセはそれでは満足せず、必死になって神の臨在を求めました。そうして、ついに「私自身が一緒にいくであろう」と、約束されたのであります。(出エジプト記33:14)

私は、神にいろいろなことを願い求めます。しかし、何よりも最も求めるべきことは、神の臨在、神が共にいてくださるということだと確信します。

吹上

2008年9月6日土曜日

生老病死

ダビデは「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも,わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです

詩篇3:4

だれもが、この死の谷を避けて通ることはできません。

「生老病死」の四苦の中を歩むでしょう。しかし、神はどのような人生の苦しみや、悲しみの時にも、共にいて慰め、力づけ、導いてくださいます。

たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災いはあなたに近づくことはない

詩篇91:5−7

詩人は、神を信じる者の勇気と喜びを歌っています。その秘訣は、神がともにおられるという確信のゆえであります。

「臨在」とは、神がいつも共にいて下さる、私が行くどこにも、神が共に行って下さるということです。

祝福をお祈りします。

吹上

2008年9月5日金曜日

引退生活

神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである

コリント第一の手紙15:10

1997年の夏、ランチョラコスタ教会で、わたしたちの引退祝賀会を持ってくださいました。

40数年の牧師生活ですが、お祝いしていただくほどのご用をしてきただろうかと反省させられたことでした。

アメリカでは「おめでとう」と、皆様が祝って下さるのですが、日本ではどうなのでしょうか。今までご苦労様でした、無事によく務められましたね、というねぎらいのお祝いでしょうか。

長いようで、短い40数年の牧師としての働きでありましたが、神の恵みのゆえにここまで来ることが出来ました。

神の恵みとともに、多くの方々の愛とサポートによって、弱いわたしでしたが、強められた日々でした。皆様の背後にあっての祈りを心から感謝いたします。

引退生活も早や11年を過ぎました。

そして高齢者となった今、今後どのように生きるべきかを考え、さらに実りある余生をと祈っています。

続いてお祈りのなかにお覚え下されば感謝です。

吹上

2008年9月4日木曜日

神の臨在に生きる(2)

ヤコブが家を出て、荒野で石を枕にして眠りについたときです。神は夢の中で「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたを捨てず、、」と約束されました。

創世記28:15−16

渡米した私にとって、大きな問題は英語の理解力不足と孤独でありました。ヤコブのようではないにしても、心の砂漠というべきでしょうか、知人の数少ない環境でした。

そのような日々の生活のなかで、私が支えられたのは、聖書の約束のことばでした。「わたしは共にいる、わたしはあなたを捨てない」そしてこの約束は真実でした。


神の臨在が、その当時の孤独だけでなく、今日までのアメリカでの生活48年間を支え、守られてきました。一人では乗り越えられなかったことです。あの時にも、この時にも、神は共にいて下さったと感謝することばかりです。

これからの人生も決して楽なことばかりではないでしょう。老いの問題、肉体の衰え、経済問題、人間関係の問題その他、、。

神の臨在があるかぎり、なにも思い煩うことはないのです。見捨てられることはないのですから。


吹上

2008年9月3日水曜日

神の臨在に生きる

わたし自身が一緒に行くであろう

出エジプト記33:14

新改訳聖書は「わたし自身がいっしょに行って、、」と訳されています。

もっと古い訳は「我親(みづから)汝と共に行くべし」とあります。英語の聖書では「My presence will go with you」です。

神の臨在とは、神がわたしと共に行ってくださるということで、すばらしい約束です。今までもそうでありましたが、これからの人生も、神の臨在があるというのです。

神と共に生きることによって豊かな老後を、霊の祝福に満ちた歩みを続けたいと願います。

ウエスレーは「人生で最も良いことは、神がわたしと共におられる事である」と言い残しました。

神がどんな時にも一緒に行ってくださる、いつもわたしのいる所に神が臨在してくださるということは、なんと力強い、祝福に満ちた約束でしょう。

吹上

2008年9月2日火曜日

健康であること

日本時間夜中の一時にIさんから電話がありました。

何事かと思いましたが、10月末の集会の件でありました。

会話の中で知ったことですが、わたしが後期高齢者であるということで、土、日曜とご用が続くと、お疲れになるのではないかと言って大変気を使っていてくださるということでした。

9月末には修養会のご用があり、また一日に2回のご用をすることもあります。今は元気に奉仕をしていますので遠慮なくお使いくださいと返事をしたことでした。

2006年の1月2日の手術(日本で)のことで案じてくださっての気配りでした。

75才からアブラハムの新しい旅立ちがあったように、わたしも主のご用のためなら、どこにでも出かけて行きたいと心に決めたことでした。8月は7回のメッセージを伝えるご用に招かれています。感謝と喜びにあふれています。

このようにご用ができるまでに健康を強めてくださった神に感謝しています。神を賛美します。また、多くの方々が祈りのサポートをしていていてくださることを心からお礼申し上げます。

健康であるということだけでも感謝であるのに、なおも奉仕ができるということは嬉しいことであります。

皆様、続いてお祈りの中にお覚え下されば感謝です。

吹上

2008年9月1日月曜日

そこに祭壇を

アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた

創世記12:7

カナンの地に着いたアブラムは、そこに先住民のいることを知り、心の中に不安があったことでしょう。

その時に主はアブラムに現れて「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われました。(創世記12:7)そこでアブラムは、神を礼拝するために祭壇を築きました。そのことはアブラムが神第一の生活をしようとする姿を示すものです。

わたしは、自分中心の生活か、それとも神第一の生活をしているかを問われます。

アブラムにとって、祭壇がある生活は、神と交わる所でありました。また神を呼ぶ所でありました。


「西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は祭壇を築いて、主の名を呼んだ」(創世記12:8)

日々の生活の中に、祭壇があるでしょうか。神と交わり、神を呼び,神に祈る生活です。目に見える祭壇ではなく、朝ごとに聖書を読み(神に聴く)祈り(神に語る)神と交わる時間を持つこと(デボーシヨン)です。

そこから一日が始まるという習慣を身につける人は幸いです。心から主を呼びましょう。
「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、、」(詩篇1:3)

吹上